息苦しくなったエッセイへの「批判」と、読んでくれたことへの喜びと

執筆したエッセイが「燃えた」。
……といっても、ものすごい数ということではないのだけれど。
場所はTwitter。二つ、肯定でない声が寄せられていたのを見つけた。
アイヌ文化に関する観劇をして、その感想をつづった文章。2022年9月半ばに公開され、まとめ記事「9月に読まれたエッセイ」内で紹介を受け、月間2番目に多く読まれたことがわかった。
エッセイを初めて投稿したのは今年の8月。翌月の終わり、なかなか記事が書けない……と、早くも悩んでいた。
「読者の方は、どんなエッセイに興味があるのだろう」
Twitter上でリサーチすることにした。「かがみよかがみ」の記事が引用されたツイートをさかのぼっていくと、私の書いた件(くだん)のエッセイを引用しているものがいくつか出てきた。
そしてその中で二つ、好意的でないと思われる声が目に入った。
「観劇にだまされている」
「そのデマどこから聞いたの」
たった二つではあったけれど、その言葉が刺さった。
痛かった。
息苦しくなった。
このエッセイの内容は、「北海道で住み始めた『私』は暮らす中でアイヌ文化を知り、その文化に関する演劇を見て感動した。知らないことばかりで、もっと知識を深めようと思った」といったものだった。
私の伝える力、知識不足があっただろう。けれど、知らない誰かが知らないところで、前向きでなく話題にしていたことが怖かった。直接、本人に聞ける勇気もなかった。
ひとまず編集部の人に連絡し、「記事を取り下げたい」と伝えた。事情を説明すると、「取り下げも可能だけれど、一部修正もできます」と提案いただき、迷ったけれど、後者をお願いした。
このエッセイにはある想いがあった。数年前、アイヌの方のインタビューがまとめられた書籍を読み、心に残っていた。その後、アイヌの方が暮らす街を訪れる機会があり、胸に響いたのだった。北海道がより好きになり、「感動を伝えたい」という気持ちがあった。
見つけたコメントにあった通り、演劇を見た感想や文化に関する説明など付け加え、再公開をしてもらった。
何かを世に出すということは、さまざまな視点から声が寄せられるのだろう。自分の書いたエッセイに関する声を見つけたことで、伝える際にはより丁寧な言葉を選び、読む方にきちんと伝わるような内容にしなければと実感した。歴史に触れるのであれば、根拠となる引用も必要だ。恐縮ではあるが、今回のことが学びとなり、経験となった。
実は最近、うれしいできごとがあった。書いた二つのエッセイに、それぞれこんなコメントが寄せられていた。
「今、ここにある自分を大切にしたい、そう深く思わされました。素敵なエッセイをありがとうございます」
「今ちょうど〜にハマっていて、配信サイトで毎日観ているところなので驚きました!」
ネット上には日々たくさんの記事が公開されている。偶然私がつづったエッセイを目に止め、時間を割いて読んでくれたこと。最後まで見て、こんな風に感想を残してくれたことに心が震えた。
やめないで、書き続けていて良かった!と、励みになった。
この文章をつづっている今も変わらず、言葉をまとめることの難しさに直面している。小説のように想像力を掻き立てるエッセイを見つけ、「どれほど文学を愛してきた方なのだろう」と、圧倒されたこともあった。
「今回はこういった書き方をしてみよう」「こんな風にまとめたら読みやすいだろうか」
日々、試行錯誤しているところである。
恋や仕事、人間関係。いろいろなエッセイを読む度に、「みんな悩みと隣り合わせに生きていて、私はひとりではないんだ」と共感し、励まされている。
また誰かの反感を買ってしまうかもしれない。本当は怖い。けれど、こうして今、最後まで見てくださっている方がいるなら──。
大袈裟かもしれないけれど、奇跡だと思う。今この瞬間、不思議とワクワクする気持ちでいっぱいだ。だからしばらくは、書くこと・読むことに依存・共存していきたい。
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