28年間生きている間に数々の不幸を体験してきました。エッセイで全てを語り尽くすには、時間がいくらあっても足りないほどだと思います。
小学生から高校生まで、容姿についてのいじめがあったり、女子たちのいざこざに巻きこまれたり。時には、片思いの相手を取った泥棒として仕立て上げられたこともありました。普段は容姿のことで馬鹿にしてくるくせに、そんな相手が好きな人を盗るほどの力量がないことくらい、分かって欲しいと不満が出てしまうことさえありました。社会人になれば職場の環境に振り回されて、上司の独裁的な思考にも振りまわされました。

◎          ◎

恋愛もそうです。どれだけ外見を磨いても、相手に尽くしても結局はくだらない理由をつけて振られてしまう。いつの間にか彼女から都合のいい女に降格し、いつまでも搾取され続けていました。
中には付き合うフリをして、マルチ商法に勧誘されたり、謎にタワーマンションに連れて行かれたこともありました。今考えるとかなり危ない橋を渡り歩いていた、そんな人生です。
だからこそ、私が書いている文章のほとんどが不幸をネタにしているし、自分の人生を曝け出すというスタイルが出来上がり始めています。

昔はずっと考えていました。幸せになりたいとか、考え方を180度変えてもっとポジティブになりたいとか。苦手な本屋に行って自己啓発本を買ってみたり、誰かが書いた心に響くポエムを読んでみたりもしました。
しかし、どれも中途半端に終わってしまうか、透明なフィルムがついたまま、読まれずに埃をかぶってどこかに行ってしまうか。それくらい、私の気持ちに前向きという感情が出てくる場面はありませんでした。昔から悪い方へ考える癖があって「今幸せだと感じてしまったら、きっと大きな不幸がやってくる」と恐怖さえ抱いていたくらいだったのです。

◎          ◎

ただ最近の私は、少し違う視点で考えるようになっていました。相当な数の不幸を書いていく中で「もしも、私が順風満帆で不幸とは無縁だったら、一体どんな人生を過ごしていたんだろう」って。
心の中で悶々としていた感情を外に出す作業は、とても簡単だとは言えません。けれども、ふとした瞬間に心地よさを感じることがあるんです。これだけ味わった屈辱や嘆きを、文章に変えられるんじゃないかって。不幸に身を置き、悲しかった思いを一心不乱に書くことで、救われることもあるんです。当時は本当に辛かった出来事も、ネタの一つになる。いじめられて一人ぼっちだった私も、仕事が上手く行かなかった私も。そして恋愛でこっぴどく振られた私さえも。
全てネタにできる。そう思うようになってから、自然と過去の自分を受け入れられるようになりました。

◎          ◎

そして今、私は新たな不幸の中にいます。
大好きな仕事を辞めて無職になって、生活を切り詰めて生きるしかない。ある時は夫婦揃って新型コロナウイルスに感染したことで、路頭に迷うかもしれないと本気で思うこともありました。けれども、それさえもネタにしようと思うのです。
コロナで高熱が出た時、私はエッセイをあえて書いていました。こんな経験は中々できることじゃない、そして今いる状況でしか伝えられないことがあるはずだと。だから、どれだけ体が辛くても書くことを止めませんでした。

初めてだったんです。それくらい自分が自分でいられる場所が。どんな言葉を聞いても、どれだけ良いもの見たとしても、味わうことの出来なかった感覚を、今実際に体験している。そして、何より不幸に身を委ねることは、それだけ言葉に重みが出ることも、書いていくうちに知りました。
私はこれからも様々な不幸を体験し、その度に一喜一憂しながら生きていくでしょう。
でも、それで良いんです。いや、むしろそれが良いのかもしれません。
不幸が似合う物書きが文章で恥を晒すことで、きっと誰かには届く瞬間があって、誰かの不幸を救うことだって出来るかもしれない。
「今は辛いけど自分よりも不幸な女がいるなら、自分はマシなんだって」
そうやって、踏み台にしてもらえれば良いんです。
それが私なりの表現の仕方であり、私にしか出来ない伝え方でもあるから。