仕事から逃げて訪れた限界。「辞めていい」と、夫は私を守ってくれた

バタバタと私に駆け寄る足音が聞こえる。後ろを振り向くと、涙を流しながらひたすら何かを言っている夫がいたけれど私には、理解できなかった。
彼が何で泣いているのか、何を話しているのか。ただ一つ分かっていることは、もう私の心は限界だったということ。それだけは、事実として分かっていた。
右手にはコートの紐のようなものを持っていたはずなのに、今は、夫の手の中でぎゅっと握られている。私はこの光景がおかしくて「何をそんなに、慌てているの?」と聞いた。
「もう、辞めよう。仕事辞めていいから。お願いもう辞めて」
そんなことを繰り返して言う夫に、ようやく状況を理解したんだ。
私は彼の目の前で死のうとしたんだって。
そして私は、とっくの昔に限界がきていたんだって。
この事件が起きる数ヶ月前に、私は仕事を休職した。大好きだった保育士から逃げて、子どもたちを置いて、私は休職した。
辞めたばかりの頃の情緒は不安定で、泣いたり黙ったりを繰り返していた。時には笑うこともあったけれど、笑いながら泣いていたこともあった。今までの蓄積なのか、体はいうことを聞かずにほとんどを寝た状態で過ごすこともあった。
夫が仕事に行った後は、ひたすら一人で孤独と向き合う。天井を見れば子どもたちの顔が浮かんで、時計を見れば仕事をしていた頃のように「今から外遊びか」なんて呟いていた。
結婚をしたから何とか役に立とうともしたけれど、何かをする元気はなくて、ただひたすらベッドでゴロゴロするしかなかった。それも、辛かった。
仕事から逃げてしまった罪悪感、家事のできない不甲斐なさ、無能な人間だと自分で自覚するしかない毎日に、孤独は容赦なく押し寄せてくる。
「行ってきます」の声が地獄の始まりで、「ただいま」の声が、今日も何とか耐えたと思える。
もう、限界だったのかもしれない。ただ、本能的に悟られたくなくて、笑顔でいる時間が増えていた。夫は「最近、笑うことが増えたね!少しずつ良くなってきているのかな」なんて言ってくれた。それさえも、罪悪感の貯金はチャリンチャリンと音を立てて、少しずつ溜まっていった。気がつけば満杯になった貯金箱は、音を立てて崩れてしまった。
泣いている夫に申し訳ないと思えなかった。助けてくれたことに感謝することもできなかった。ただひたすら「どうして止めたの」そういう感情しか湧かなかった。だからつい「気が付かなければよかったのに」と言ってしまったんだ。
夫は、ハッとした顔をして「もういいよ。ごめん、気づいてあげられなかった。一番近くにいたのに、一番理解していたはずなのに。何にも分かってなかった。ごめん、ごめんね」と抱きしめながら謝り続けた。私は、子どものように泣きながら「保育士を続けたかったよ。子どもたちに会いたいよ。なんで、なんで私ばっかり!何でなの」と泣いた。
その日、私たちはひたすら二人で泣き続けて朝を迎えた。
少し気持ちが落ち着いたから、心の中の気持ちを打ち明けたのだ。
「私は、保育士が大好きだった。けど、もう無理かもしれない。子どもたちにも会えないのが辛い。でも、毎日毎日心をすり減らして生きていたら、子どもたちのことも、保育士も嫌いになっちゃうかもしれない。もう、私は限界なんだと思う」って。
夫は「話してくれてありがとう。もう、辞めていいんだよ。君が仕事の話をしていた時の嬉しそうな顔が好きだった。子どもたちの話をしている時の君が好きだった。でもね、もう辛いなら辞めていいんだよ。辞めることは逃げることじゃない。守ることなんだ。もう十分頑張ったよ。子どもたちにも伝わっているから」と。
その言葉で、ようやく私は保育士を辞めた。
今までしがみついていたものを捨てて、自分のために辞めたのだ。
仕事を辞めてから、肩の荷が降りたのか随分と穏やかに過ごせるようになった。
あの日の出来事がまるで嘘に思えるほど。もしもあの時「もう少し頑張ってみようよ」なんて言われていたら。もしもあの時頭ごなしに行動を否定されていたら、私はここにいないかもしれない。命を盾にしたつもりはないけれど、今は死ぬ選択を選ばなくてよかったと思えるようになった。
私は、過去にも一度自殺未遂をしたことがある。その時も一歩手前で生かされたから、きっと私は何かやるべきことがあるのかもしれない。
どれだけ辛い経験だったとしてもやっぱり保育士をしていた頃の自分が好きだった。子どもたちと関われる毎日が、幸せだった。その気持ちは、この先も忘れることはないだろう。
私と同じ道を歩もうとしている人がいるなら、「生きて」なんて言葉を簡単に言いたくないんだ。きっと、沢山考えて何度も踏みとどまって選ぼうとしていると思うから。それに「今は辛くても幸せはいつかやってくるよ」なんて安易なことも言いたくない。ただ文章で伝えることしか出来ない私が、もしも究極の選択を迫られている人に出会っているのだとしたら、遠いどこかで抱きしめさせてほしい。
同じ気持ちが痛いほどわかるから。
そして、どこかであなたのことを心から必要としている人がいるから。
辛いなら、勇気を出して逃げ出してほしい。苦しいなら思いっきり泣き叫んでほしい。どうか、世界中にただ一人しかいないあなた自身を、命を絶つことではなく、違う方法で守ってあげてください。
生きていればきっと、前を向ける日がやってくるから。
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