誰かの自慢になりたかった私は、知らない人の褒め言葉で書道を辞めた

小中学生の頃、お習字教室に通っていた。様々なコンクールに出品しては、予選突破を生徒さんで総ナメするような、大きな教室だった。
気づけばわたしも様々なコンクールに出品していた。でもきっと、教室の中では決して上手な方ではなくて、輝かしい結果を残せない生徒だった。
市大会はギリギリ銅賞、県大会には進めず、みたいな。同じ教室の子は県知事賞だとか、なんたら大臣賞だとか、金賞どころではない特別賞を受賞するのに。周りとのレベルの違いに、何度恥ずかしさを覚えたんだろう。
あぁ、そうだ。思い出せば、“悔しい”じゃなくて、“恥ずかしい”だった。「良い賞を取りたい」ではなかった。
「自慢の生徒になりたい」「自慢の娘になりたい」「自慢の孫になりたい」「自慢の姉になりたい」
誰かが誰かに、わたしを使っていい顔をしてほしかった。昔からずっと、勉強も運動もできなかったから、その分何かに秀でていなくてはいけないと思った。
当時、いや、きっと今も続いているけど、毎年冬には小中学生が対象の大きな書道コンクールがあった。1年の集大成と言っても過言ではない、明治神宮全国少年新春書道展。
墨を乗せた瞬間にやり直しが効かなくなる絶望を何百枚と繰り返し、やっとの思いで自由課題を完成させ、出品。12月頭に届くハガキに、表彰式への招待状がついてくる。それは、小中学生合わせて30,000点を超える作品の中から、上位300点のみが受賞できる最高賞、“特選”に選ばれた証拠だった。特選作品は、翌年1月5日から1月30日まで、明治神宮の社殿前廻廊内で展示される。
ハガキが届かずに12月が半分終わる絶望を、何度経験しただろう。妹には届いたのに、自分には届かない。なんて恥ずかしい姉なんだろう。
わたしは小学生5年生から毎年出品し、中学3年生、最後の挑戦でやっと、夢のハガキを手に入れた。
返信用ハガキに表彰式出席の旨と同席人数を記入し、ポストに入れた。そして翌年1月5日、明治神宮。例年よりも気温が低く、太陽さえもわたしを祝福してくれない中、神聖な表彰式を終えた。
社殿前廻廊内に展示された作品を観に行くと、わたしが書いた“春風桜舞”を目の前にし、「春風……いいなぁ」と呟く、知らない年配男性がいた。その隣で、わたしは静かに書道を辞めた。
あれから9年が経った。毎週月曜日と木曜日には、家でお習字教室を営む母のもとに、近所の生徒さんがやって来る。お習字を習っているとは思えない明るい声が、近所に響く。
人によっては、「書道って、心を静かに、緊張感を持って、伝統文化を嗜む、みたいな感じ」というイメージの人もいるだろう。もちろん間違ってない。でも、うちの母もきっと間違ってない。
うちではお習字を楽しんでほしい。嫌になったら書かなくてもいいし、忙しくて今月は行けません、でもいい。楽しいなと思って書いてくれればいいのよ。コンクールだって出したかったらもちろん教えるし、みんな出してるからって強制には絶対しない。うちの子たち、コンクールの結果が届いても「そんなの書いたっけ?」みたいな子多いよ、って。
親バカならぬ娘バカかもしれないけど、うちの母のもとでお習字を習う子たちは、恵まれてると思う。あんなに楽しそうにお習字をする子たちを、わたしは見たことがない。
わたしが筆を持つことはきっともうないけど、母のスタンスも、生徒さんたちの字も、もちろん母の字も。誠に勝手ながら、わたしの自慢です。
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