妬む心が、人を傷つける言葉になる。そんな貧しい心はもう捨てた

どうして名前も知らない他人が、気になってしまうのだろうか。
今すれ違っただけで、この先一生会うこともない誰かのことを気にしてしまう瞬間がありました。
それは決まって、自分にはないものを持っている人たちでした。私が欲しくてたまらなかった幸せを感じながら、生きている人たちでした。心の底でどう思っているかは分からないけれど、少なからず私よりは幸せそうに見えていました。
小さな袋を持ちながら、お互いに顔を見合わせて微笑むカップル。子どもの手を握りながら、笑い合う夫婦。友人とショッピングを楽しみながらはしゃぐ高校生たち。全てが私にないものばかりだったんです。
一人でイヤホンをしながら歩く姿は、どう映っているのだろう。「羨ましいな」とか「幸せそうだな」なんて言葉で片付けられたらよかったのに。いつだって羨ましいと思う心は、私の中に入り込み、掴んで離そうとしませんでした。それは、ほんのつい最近まで持っていた感情だったのです。そして、きっと誰にでもある感情なんだと思います。
他人に対して品定めをしているような言葉を吐く人がいるのです。全く関係のない人なのに、気に入らないと思えば、すぐに嫌な言葉を使ってけなす人にも会ったことがあります。そこにはきっと「羨ましい」という感情が少なからずあったのかもしれません。
結局みんな自分が大切だから、他人なんてどうでもいい。自分が気に食わないから、相手に聞こえていなければ悪口を言ってもいい。そうやってプライドを守っていたり、自分自身を強く見せようとするのです。
ただ、その言葉はふとした時にバレるもの。昔友人と歩いている時、私の服装を見て「あいつ、男?女どっち?女だったら無いわ」と、通りざまに言われたことがありました。
振り向くと、彼らと私たちしかいなかったのです。チラ見をする目の動きは、明らかに私の方を見ていました。
友人は「気にする必要なんてないよ」と言ってくれたけれど、言われて傷つかないわけがない。性別を否定されたことが悔しいわけじゃない。ただ、私の容姿について品定めをして、馬鹿にしたことが許せなかったのです。
「どうして見ず知らずの人に、言われなければいけないの」と思っていても、吐き捨てられた言葉は、まるでひき逃げ犯のように、大きな怪我を負わせて、傷つけて去っていきました。
あの時の顔も、声も今でも覚えています。ただ、そんな私も過去に同じようなことをしていました。
自分自身が優位に立ちたかったからなのか、嫉妬心からなのか、知らない誰かのことを見て、クスクスと笑う。ネタの一つとして話を面白おかしくすることもありました。言っているときは、優位に立っている気持ちになっていた。けれど、後から考えてみると、私のやっていることは心の貧しい人のやることだと、思ったのです。
誰しもコンプレックスがあって、プライドもある。自分が一番可愛いに決まっている。ただ、それを確認するために誰かを傷つけていいわけじゃない。
つい最近、誰かの容姿を馬鹿にする発言に出会ったばかりです。その行動自体が貧しいことだと気づかないまま、ひたすらヒソヒソと声を抑えて馬鹿にする。そんな状況が私は好きではありません。かつて同じように言われたことがあるから。そして私自身も同じようにしてきた過去があるから。
きっとこの先、彼らが心の貧しさゆえの行動に気づくことはないかもしれません。自分で気づくことは、とても難しいことだから。
あなたの周りにもいませんか?
見ず知らずの人を馬鹿にする発言をしている人は。
自分が世界の中心として生きていると思っている人は。
もしも友だちがそうだったとしたら、教えてあげてほしいのです。「その言葉は、いつかあなたにも返ってくるよ」と。「心の貧しさを他人に使って発散するのは、もうやめよう」と。
誰にだって言われたくないことがある。
誰にだって触れられたくないものがある。
あなたの言っている言葉が、もしもその人にとってのコンプレックスだったとしたら。
あなたは、傷つけてしまった心を元に戻すことはできますか?
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