自分の名字が好きになれない。

本当は下の名前(ファーストネーム)で呼ばれたいのに、
出会った人の多くから名字(ラストネーム)で呼ばれてしまった。

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「下の名前で呼んで」とひとこと言えばいいのに、小さいころの私はなぜか恥ずかしくて言い出せなかった。同じように名字で呼ばれた子は「名字やめて」とはっきりと主張して、その子はちゃんと周りから下の名前で呼ばれていた。

だから自分の責任。そうなのに、なぜか悔しい。
はっきり主張できない自分が情けなかった。「周りと違う」ことが嫌だったという、これまたしようもない理由なのが、今思うとより恥ずかしい。

たとえば小・中学校ではクラスメイトのほとんどは下の名前で呼ばれていた。
もしくは下の名前を短くしたあだ名。親しい間柄なほど、そんな感じだった。

私は恐ろしいくらい人見知りだったから、そういう心の距離もあってか、名字に「ちゃん」もしくは「さん」付けで呼ばれていた。読み方が二文字なので、下の名前の三文字「しずか」より呼びやすい理由もあったかもしれない。

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大学生のときにしたアルバイト、大学卒業後の会社員生活では、ほとんど全員、名字で呼び合っていた。呼ばれ方についてはあまり気にならなくなった。しかし、一度嫌だと思った名字を好きになることはすぐには難しい。

けれど、大学生活のある日を境に、名前に対する受け止め方が少しだけ変わっていた。
フランス文化の授業で学んだ、記号に関する考え方。
例えばある耳の生えた生物に対し、日本語では「猫」、英語では「cat」、フランス語では「chat」と呼ぶ。その生物自体は同じものであっても、言語によって呼ばれ方が変わる。

名前というものはヒトやモノを分かりやすく認識するための記号。何かを分かりやすく示すための呼称ということ。
私はこの考え方を知って、少し心が軽くなったのを覚えている。

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今、私は趣味でものづくりをしている。そのコミュニティでは自然と皆、年齢や世代を問わず、下の名前で呼び合う。ある人は自分の好きな名前を考え、発信している。
「名前を教えて」と尋ねられたら、本名と違う憧れの名前を付けてもきっと大丈夫。それは本当にすごいことだ。

あるひとつの場所で、好きになれなかった名字を誰にも明かさず、聞かれることなく、知られずにいる。呼ばれないことでコンプレックスを抱いた思い出が呼び起こされることなく、チクンと胸が痛む回数が大きく減った。

名前は記号であるから、もし生まれながらの名前が嫌だったら、名前はただの呼称にすぎないと、そう受け止めればいいのかもしれない。
もちろん名前というのは自分を表すものであるから、お気に入りの名称だと心が弾む。実際に私はそれを実感して、いくら名前は記号と思おうとしても、やはりお気に入りだと幸せな気持ちになる。

世の中の人は自分の名前とどう向き合っているのだろう。
いつか自分の名字が気にならなくなる日が私には来るのだろうか?