激化するスリランカに冒険した母。一生叶わない長旅の真相を知ること

今から約40年前、母は内戦が絶えないスリランカに冒険をしていた。トロッコに乗って知らない人とお酒を酌み交わし「愉快だった」という。そのお酒はどんな味だったんだろう?
今から17年前に、母は病で死んでしまった。だからその理由を聞けない。
大学を卒業した母は、JICAが派遣する青年海外協力隊に参加をした。二年間、コロンボという街に派遣を受け、コミュニティ開発などに携わったという。
これらの話は母から直接聞いた訳でなく、母の手帳に断片的に記されていた情報から知ったことだった。今から数年前、実家で片付けをしていた時、私は古びたノートを見つけた。「一体これは何だろう」とページをめくり、そこには母の字で想いがあれこれと綴られていたのだった。
「今日もうまくいかなかった」
「文化の違いなのだろうか」
そんな弱音が走り書きで何ページも続いた。何も書かれてない日もあった。
長い植民地支配を終えたばかりのスリランカ。紛争が相次いでいた時期である。
簡単に物事はうまくいかなかったのだろうと、そう文章から伝わってきた。
母は身近な人に弱音を吐いていなかった。
私が手帳を見つけてからしばらくして、祖母の家を訪れる機会があった。
90歳近い祖母はときどき私と母の名前を間違える。この日も祖母は、私のことを母の名前で呼び、そのおかげか、聞きたいことを思い出した。
「お母さん、なんで青年海外協力隊に参加したのか知ってる?」
祖母は「うーん」と首を傾け「なんでか分かんないんだけど」としばらくうなっていた。
そしてはっと何かを思い出したように「手紙くれたじゃない」と腰を上げ、物入れを開いた。一枚の鮮やかなポストカードを手にして「ほら、これ」と私に見せてきた。
アジアンチックな赤色の模様が描かれたカード。裏返すと母の文字で
「楽しく元気にしてます」
そんな言葉が記されていた。夜にトロッコに乗って、知らない人とお酒を酌み交わしたという。星が綺麗で愉快だったそう。
たったそれだけの言葉だった。
それ以上何もない。辛い思いなど何一つ見えなかった。
「スリランカの生活は順調」
そんな風に聞こえるくらいだった。心配をかけまいという、母の強さに感じられた。
私は母を思い出すといつも申し訳ない気持ちになる。仕事が忙しくあまり近くにいてくれたことはなかったけれど、周りのことに敏感に気付き、私が学校でうまくいかなかった時に助けてくれたのは母だった。
一緒にお出かけしたときには、街で困っていた異国の方を見つけ、助けている姿を見たこともある。
ひょうひょうとして、当たり前のようにしていた。
決してそんなことないのだった。過去の経験から、できるようになってたのかも知れなかった。
小さいころの私は感情をうまく出せず、母をたくさん困らせた。もっと母の辛さに気付き、支えられれば良かった場面がたくさんあった。
普段は過去の記憶に蓋をして、何も思い出さないようにしている。しかし何かの拍子で過去の記憶が頭に浮かぶと、「ふがいない娘でごめん」と涙がいまだに出てくる。
母の人柄に惹かれ、その仕草に近づきたいと憧れるようになっていた。ここ、最近のことだ。
これから辛いことがきっとたくさんあると思う。けれど、「母もがんばっていて、あんなふうになりたい」そう、「あの夢があったから」と、辛い時にその気持ちを思い出せば、乗り越えられる気がする。
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