私はとある地方の、決して裕福ではない家庭に生まれた。4人兄弟の3番目だった。
「決して裕福ではない」という言葉は、人によってその基準が異なるだろう。私の場合は両親が自営業であるため年収に波があり、生活水準としては中の中から下の上くらいの位置にいたと思う。
最も貧しかった時代は、中学から高校にかけての間だ。
姉が高校受験に臨んだとき、私は中学1年だった。姉は母に「あらゆる特典つきの特待生として合格しなければ、お前の弟妹が高校に行けることはない」と言われていたらしい。合格を知ったときにはその場で膝から崩れ落ちて泣きじゃくったという。
一番上の兄の暴力がひどく、姉と私と弟にとって実家は安心して眠れる家ではなかった。
父は夜に仕事をし、昼間は眠っている。兄からは「お父さんを起こすな」と、かすかな足音を立てただけで殴られた。ドア一つ閉めるときにも、常に細心の注意を払わなければならなかった。
さらに、夜中には弟が暴れ、窓を割り、壁に穴を開ける音が聞こえた。弟は兄による虐待の被害者であり、また私や姉へのDVの加害者でもあったのだ。
姉は、そんな家から逃げ出して、夜の田舎町を似たような境遇の仲間たちとともにさまよった。それは、私たち弟妹を見捨てることはできなかった姉の、精一杯の努力だったと思う。
姉のおかげで私は高校に行けることになった。公立高校で、低所得世帯向けの就学援助を受けながら、雨の日も雷の日も約3.5kmの道のりを自転車で通学し続けた。
女子生徒みんなが格好いいダークブラウンのローファーを購入する中、私は教科書や体操着の出費に顔をしかめる母の顔色をうかがって、安い白のスニーカーを選んだ。
私の家庭は、文化資本にも乏しかった
小学2年の頃に親の本棚を漁りはじめ、良質とは言えない類いの翻訳小説を百冊近く読み終えると、次は数十年前に大流行したらしいとある国際ジャーナリストの著書を漁った。石油会社の利権争いといった話はよく分からなかったが、国際政治への基礎的な好奇心は芽生えた。しかし、やがて煽り口調が上手いだけのそれらの本にも飽きた。小学5年生だった。
小学校の図書室のめぼしい本は読み尽くしたが、地域の図書館は蔵書内容が貧しく、燃えんばかりの知的好奇心は行く当てを失った。小学5年でちくま文庫を読む子供に、ふさわしい本は与えられなかった。
中学に上がると、私には燃え尽きの症状が出るようになった。何年も満足させられない好奇心、虐待のフラッシュバックによる凄まじいストレス、フラッシュバック時の身体の虚脱感……etc.
学校の授業など少しも耳に入らなかった。
その頃は半年に一度美容院に行ければいいほうで、いつも長い前髪で顔が隠れていた私は、さぞどんよりと暗い雰囲気を漂わせていたことだろう。
人間らしい身繕いができる金さえろくに持てなかった。使い古しの財布には、50円玉が入っていることすら珍しい。ツタヤで映画のDVD一枚だって借りられない。漫画『NARUTO』も『BLEACH』も『銀魂』も、クラスメイトがその話題で盛り上がる中、「私も読みたいのに」と、胸の痛みをこらえて知らんふりをしていた。
家庭内の文化資本の貧しさ。
そうした環境は徐々に私をむしばんだ。やがて私は中学受験ができる富裕層への嫉妬を募らせ、視野を狭め、汚く暗い言葉しか口にできないようになっていた。だからいつも、口を閉じて黙っていた。
文化とは、富裕層のためのものなのか
大人になった今も、自分の文化資本の貧しさを痛感することがある。
「自分へのご褒美をあげよう」と考えるときに、私がまず思いつくのはコンビニのスナックだ。手っ取り早くて、ムカつくことがあった日にはドカ食いでストレス発散ができて、どんなにみすぼらしい身なりをした人間でも買えるからだ。
一時期は創作にハマっていた。小説にハマった時期もあったが、比較的負担が少なく続けられたのは短歌だ。けれど、文学を読み、創作をする人々との、あまりの生まれ育ちの違いに、私はだんだん耐えられなくなっていった。
文学に興味関心を持つ人というのは、もちろんみんながみんなそうではないのだが、大体は中流家庭かそれ以上に裕福な家庭に生まれ、人間の暗部をあまり知らない。虐待をする人もされる人も、小説の中の世界か、どこか遠く貧しい地域の話だと思っているようだ。虐待や福祉に関する話──この社会で苦しみながら生きている人たちの話をしたがる人など、わずかに数人を除けば、私は見かけたことがない。
詰まるところ文化とは、富裕層のためのものなのか。富裕層が作り、富裕層が楽しみ、富裕層によって継承されていくモノなのか。
それは違う、と刃を突き立てたくなった。
今の私は創作から離れている。けれど、貧困層の悲しみと苦しみを、彼らが日々味わっている理不尽を、「文化」というモノに突き立てたい。「文学」というモノに、恵まれない人々の悲嘆を永遠に刻みつけたい。
現在の私は「下層階級の悲嘆」を「文学」に昇華させられるだけの力量を持たない。それでもいつか必ずその刃を文学の心臓に突き立ててみせる。今は、鰐のように水面下から「その時」を狙っている。
ペンネーム:橋口泉
在宅ライター。持病と闘いつつ在宅ワークに勤しむ。趣味は読書。おひとり様向けに書籍マッチングサービスやってます。詳しくはTwitterまで。
Twitter:@Hasiguti_Izumi