中学1年生のとき、ある同級生の男の子のことが気になっていた。純粋で、世間知らずのわたしはそのときまだ、気づいていなかったのだ。まじめで堅物に見える人間が、チャラい集団の中にいた男子のことを好きになっている、という事実が、つまらないことだらけの学校生活の中に突如として現れた、絶好の「見世物」になるのだ、ということを。
自分なんかが「好き」という感情を持っていてはいけなかったのだ
わたしはクラスのからかいのターゲットにされた。黒板に相合傘を書かれたり、他クラスにも響き渡るような大声で騒ぎ立てられたり。大切にしたかったはずの思いは、衆人にさらされ、血祭にされ、ぐちゃぐちゃと土足で入られる存在になった。そして、運の悪いことにその思いは、相手には届くことなく、彼の優越感を高めるだけのものになった。
周りからの軽蔑のまなざし。自分なんかが、そんな感情を持っていてはいけなかったのだという後悔。様々な感情が「恥ずかしい」という気持ちに集約されていくのがわかった。尊くて、憧れの美しい感情を手に入れられたという幸せは、いとも簡単に消えていった。
「好き」という感情を覆い隠しているうちに、恋愛ができなくなった
もう、こんなみじめな思いなんてしたくない。傷つきたくない。そのためには、「好き」という「愚かな感情」を人に悟られてはいけない。そう決意を固めたわたしは、それから小さな嘘をかさねるようになった。それは、たとえ気になる人がいても、「好きな人なんていない」と答えるという嘘。言い換えてみれば、「自分に嘘をつく」ことにしたのだ。以来、かわいい子たちが楽しそうに恋バナを話す中で、わたしは彼らの「応援役」なんていう都合のいい立場に立って、恋愛からは遠ざかろうとした。
でも、「好き」という感情を覆い隠し、別の感情をかさねていくうちに、本当に恋愛ができなくなってしまった。信頼はできるし、一緒にいても楽しい。けど、小難しく考えれば考えるほど、感情はどんどんわからなくなっていく。大人になり、そんな冷やかす人はそこまでいないはずなのに。
「彼氏ができない」なんて言っていた人たちがどんどんと恋人を手に入れていく中、わたしはできないまま。「焦らなくても、絶対大丈夫だよ」なんて、励ましの声をかけてくれる人もいるけれど、彼らは理屈をこねることなく、誰かのことを好きになって、好きになられた人たちなのだ。出来ないことのオンパレードで吐き気がする。
過去から脱しない限り、永遠に「好き」という感情を手に入れられない
中学生の頃、わたしのことをからかった彼らと会ったのは、成人式の時が最後だ。彼らのSNSには、彼らが泥だらけにして、バカにしたはずの「幸せ」がちらついている。
分かっている。きっと、こんなのは当てつけでしかない。結局わたし自身が、この過去から脱しない限り、永遠に「好き」という感情を手に入れられない。でも、過去から眼を背けようとするたびに、蓋をしたはずの感情がどくどくとあふれ出てしまうのだ。そして、その感情を、「甘酸っぱい思い出」にする方法を、わたしはいまだ持ち合わせていない。