最近一人暮らしを始めた。
この生活が始まり、1日目にして気づいた。
今まで家がストレスだったのだなと。
まあ、ずっと気づいていたけど、考えたくなかった。
そういえば、家の人に会わないように遅く帰りたくて、無駄に街や駅で時間を潰していた。
ご飯や遊びに誘われたら、私フッ軽だからとか言って飛びついて行っていたのは、本当は家でご飯を食べたくなかったら。
大学生になってからはバイトと遊びを詰めまくって、家にいる時間を減らそうとしていた。
だから、正直行きたくないご飯や遊びにも、誘われたら行っていた。
疲れてお金もなくなるんだから断れば良かった、ってきっと思うんだろうな、と予想しながらも、行っていたな。
それは、家にいたくなかったから。
かといって、誘いを断って、ひとりで時間を潰したくもなかったから。
安心して「帰りたい」と思える場所があると、人は豊かになると思う
いざとなったら帰れる場所、いざとなったら頼れる人間を持つ人というのは、強い。
もうね、最強。
ここでうまくいかなくても、あそこで非難されても、新たなコミュニティにうまくなじめなくても、それでも大丈夫なのだ。
絶対的に自分のことを受け入れている、別の場所なりコミュニティを、持っているから。
うまくいかなくてもそこにまた帰れば、自分の価値観や考え方をよく知った人がいて、気兼ねなくリラックス出来て、素でいられる。
その自分を守ってくれるホームで、自分の価値観を再確認して、再出発できる。
ああこの人は家族からあふれんばかりの愛情を受けて、それを感じて育ってきたんだな、という人に、一定の頻度で出会う。
とても素敵なことだ。
でも、「なんでもお母さんに相談してしまう」「家族LINEが面白すぎて」
こんなフレーズを聞くと毎回、そう言えない自分とのギャップに驚いていた。
家族について話すことが苦手だった。すれ違いや誤解、緊張に満ちた日々。
私が家族のことを話すときは、何か重いものが心にずん、と落ちてくるし、自分の言葉がすごく遠くに聞こえる。
別に、私の家族はいたって普通の家族で、両親二人と弟はみんな元気に生きている。
DVや離婚、があるわけではないし、外から見れば、「普通」の家族。いたって平和な。
でも、昔の両親は、言葉の暴力がひどかったり、キレたら少し暴力的になったり、過干渉なせいで、自分の人格と親の人格が統合されそうだったことも、あった。
ドアをわざと勢いよく閉める音、冷たい空気の流れる食卓、きつく子供を叱る金切り声、散らかされた部屋。
圧倒的なコミュニケーション不足で、お互いが何をしているか把握しておらず、すれ違いや誤解、緊張に満ちた日々。
そんな細切れの記憶が、楽しい記憶以上に頭にちらつく。
だから、考えがそのようにネガティブな方向に行ってしまいそうになったら、おなかにギュッと力を入れて、急いで別のことを考える。
最初は難しかったけど、今はうまくできている。
楽しかったことだってたくさんあった。
家族旅行にも行ったし、ファミレスに晩ご飯を食べに行ったし、小学校の運動会には家族そろって見に来てくれていたし、家のご飯は本当に美味しい。
学んだこともたくさんあった。
人を叱るときに人格まで否定しないこと、近しい人にこそ、感謝や気遣いを意識してすること、人が弱っていたら心配していることを言葉や行為で示すこと。
それらの些細なことが、どれほど、どれほど、大切なことだろうか。
自分のことは守ったまま、適切な距離感を保ちたい
ありがちな話、生活拠点が実家から離れた場所になった今、両親のことを客観的に捉えられるようになった。
そして、やっぱり両親とは、やっとたどり着いたこの適度な距離感を保って、これからも付き合っていきたい。そういう結論に今はいる。
いずれまた、彼らとの関係性が変化するタイミングが訪れるかもしれない。
それは誰にも分からないし、お互い時間が必要かもしれない。
でも、余計な期待はしない。
私は私の心を絶対に守ったまま、譲れない部分への侵入は決して許さず、家族と接したい。
今は、そう思っている。
一体、今の両親の姿をありのままに見ることのできている人が、どれだけいるのだろう。
私だって、ありのままに見ることが出来ているとは、まだ言えないと思う。
ティーンエイジャーまでの、絶対君主的な両親の印象がとても強いから。
でも、もっと両親をありのままに見たい。「両親」というフィルターを徐々に外していきたい。両親だって、私たち若い人が成長していった先の同じ人間であり、完全なわけではない。
そして、私は同じ大人の、一個人として、向かい合いたい。
たとえ両親が私に対して、同じように接してくれないとしても。
両親には本当に感謝している、自己満足かもしれないけれど
今こうやって一人暮らし出来ていること、今まで育ててきてくれたこと、両親には本当に感謝しています。
ありがとう。
感謝した方が、自分の心が「いい感じ」になるから。
そんな自己満足の感謝かもしれないけれど。
それでも、与えてもらったものは、大きい。
そしてやはり強く思う。人には、安心して帰れるホームが必要だと。
帰りたい、と思える場所や人が、何でもいいからひとつでも存在していることは、その人を強くすると、心から思っているから。
だから私がまず、誰かにとって、安心できる場所としての「私」であれたら、心から嬉しい。
それはもう、泣いて喜びます。
私も、自分にとってのそんな新しい場所を探しにでかけたり、あわよくば作ったりしたい。
だから決して、人格ごと否定したり、手を出したり、愛を伝えることを怠ったり、コミュニケーションをあきらめたり、そんな無機質な世界は作り出さない。
いつからだろうか、そう誓っている。