わだかまりは私の頭に残り続けてぐるぐると旋回した
「朝、自分の顔を見ないように見ないように準備して、いざ最後にメイクをするために鏡を見て、毎朝泣きそうになる。」
仲のいい友人数名と化粧品やスキンケアについて話していたときに、冒頭の言葉が1人の口から発された。それに肯き、涙すら零しそうになっている友人がいた。聞けば、二人とも肌荒れを治したくてホルモン剤をとりはじめたらしい。しかしホルモン剤は肌荒れが治るのと引き換えに、精神的にも肉体的にも好調不調の波が大きくなることもあるらしく、一人は使用を止め、一人は辛いながらも使っているという。
こんなにも身近に肌荒れのために化粧品以上の、つまり医療の域に達する努力をする人がいたということにも驚いたが、それ以上に、そのあとに続く友人の言葉に、内心「ありえない」と思ってしまった。
鏡を見ないでトイレに行き、鏡を見ないで朝ごはんを食べて、いざ最後に化粧を施す段になり、鏡を見て泣きそうになる。それを毎朝欠かさず、こんなにも近しい人間が味わっている。その話題が終わったあとも、わだかまりは私の頭に残り続けてぐるぐると旋回し、響き渡っていた。
副作用を我慢してまで肌のことを第一に考える生活はヘルシー?
そんなの、不健康すぎないか。
その場では言わなかった。言えるわけがなかった。私は生まれつき肌が強く、ニキビは人生で一度としてできたことがない。地頭の良い人間に「勉強がすべてじゃないよ」などと言われるのがいかに腹が立つか私はよく知っている。
しかし、肌荒れのために副作用の愚痴が湯水のごとく湧き出ることもあるホルモン剤を使用してまで、肌のことを第一に考えて生活することはヘルシーなのだろうか。
その価値観は不健康な社会が作ったもので、本来無かった苦しみなのではないだろうか?
肌は荒れているより荒れていないほうがいい、この先一生誰にも会わず鏡を見ないとしても、健康な肌のほうがいいだろう。先の話題に上がっていたのはしわやシミという経年変化ではなく、ニキビだったことを考えれば尚更だ。だとしても、「自分の顔の肌荒れが気に入らなくて、治したいと思っている」と「自分の肌が嫌い」、この二つは全く違うのではないか。
本人の価値観の問題だと言われれば黙るしかないのかもしれない。しかし、もし令和2年に20代前半の日本人女性じゃなかったら、ここまで悩んでいるだろうか。
そもそもその価値観自体が、本人のそうしたいという思い自体が、強迫観念じみた欲求を抱かせるほどの広告や、それを是とする社会的抑圧によって、不健康な押し付けを知らず知らずのうちに取り込んで、造り上げられたものなのではないか。
何のために肌荒れを治したいのか、本当にそれは「自己満足のため」の範疇に収まっているのだろうか。お金と時間をかけて、副作用で、例えば便秘になってまで叶えたいことなのか?
自分の価値観に苦しめられることほど逃げ場のないものはない。
けれど、きっと、その価値観は不健康な社会が作ったもので、本来無かった苦しみなのではないだろうか?