タン タカ タカタン タッタカタン
タン タカ タカタン タッタカタン……
タップダンスを習い始めて三ヶ月。その日も私は必死にリズムを身体に刻み込んでいた。
その時だ。先生が放った一言に私の意識は根こそぎ持っていかれた。
「海外公演、ドイツに決まったよ」
ドイツ?!
私のアンテナが立つ。カント、ヘーゲル、ニーチェ……ドイツは哲学者の宝庫である。胸がときめいた。彼らが生きていた場所に行ってみたい!
海外公演への不安を乗り越え、楽しい妄想劇が広がる
しかし問題がある。タップダンス歴三ヶ月のひよっこが海外公演に出演することへのハードルだ。
先生に相談すると目を丸くした後「なんとかなる!」とグッドポーズを見せてくれたけれど、なかなか決断がつかない。
足を引っ張るのは勿論、まだスクールに話せる人がいない私は内輪のノリに馴染めず、きっと浮くだろう。
海外公演に出演するメンバーは大の大人ばかりで、唯一私と同じ未成年組の女の子は幼少期からタップダンス一筋の超ベテラン。年少ながらセンターを任されている。
袖幕にちらほら隠れる私が気軽に連める雰囲気ではなかった。
第一、小学二年生の家族旅行以来、実に十一年ぶりの海外である。私にとってはドイツも火星も大差ない。
そうこう悩んでいるうちに申込締め切り当日を迎えてしまった。
それでも尚、憧れと不安の狭間でうじうじしている私を見兼ねた母は「生きて帰ってくればいいから行ってらっしゃい! 本場のビールの感想を聞かせてよ」と背中を叩いた。
「私、十八だもん。娘の歳も忘れちゃったの?」と拗ねる私。
すると母は「何言ってるの。ドイツは醸造酒なら十六から飲めるのよ。日本人もドイツにいる時はドイツの法律が適応されるの」と得意げに説明した。
「えっ!そうなの?!」
私が目を輝かせた一瞬の隙を母は見逃さなかった。
「じゃあ決まりね。ドイツ、楽しんで」
決まったもんは仕方がない。それからというもの私は講義中も信号待ちもリズムを口ずさみながら脚を人知れず動かし、寝る前はドイツ語会話の本を開いて一人妄想劇を繰り広げた。
初舞台を終えて、ちょっぴり大人になった私に乾杯!
いよいよドイツに飛び立ち、初舞台の幕が開く。口から心臓が飛び出しそうだ。
上手くいったら帰りにビールを買って一人、ホテルで乾杯しよう。
自分に言い聞かせ、鼓舞する。私の祈りは無事にダンスの神様に届いた。
もしミスをしていたら飲酒デビューがヤケ酒になるところだった。危ない、危ない。
その後、遊びに出かける他のメンバーたちに別れを告げ、私は一人ホテルへ向かった。
最寄りのフランクフルト駅に降りる。そこに広がる光景に私は息を呑んだ。
プラットホームに瓶ビール片手のドイツ人が溢れかえっていたのだ。エスカレーターに乗っている人もみんな頬を赤く染めている。
ポップの香りと彼らの陽気な笑い声、熱気に包まれた私の足元は三センチばかり宙に浮いたようだ。
どうやらその日はサッカーの試合があったらしい。私のビールへの期待は高ってゆく。駆け足で売店に入った。
ホテルに帰り、ふかふかのベッドに座って窓からフランクフルトの夜景を見渡す。
不意にガラスに映るビールを持った自分と目が合う。
今日は自分に乾杯しよう。十八歳は大人じゃない。
でも私は今日、ちょっぴり大人になった。緊張で乾いた喉に冷えたビールが流れてゆく。
爽やかな甘みとほんのりとした苦み。芳醇な香りが鼻に抜ける。
私、広大な海を越えて外国に来たんだ。
不安さえも人生のスパイスに。あの日の胸の熱さは忘れない。
翌日の楽屋でひょんなことから他のメンバーに今日ここに至るまでの経緯を話した。
未成年ながら飲酒という掟を破りたい一心でダンススキルの未熟さも顧みずドイツまで来ちゃいました!
未成年のまま飲むビールの背徳感は最高でした! といった具合に。
するとその場にいたみんなが笑ってくれた。それから「今夜レストランで飲むんだ。一緒にどう?」とセンターのあの子が言った。
仲間と飲むビールは昨日とは違う味がした。どうやらビールは人生のスパイスが入るとより美味しくなるらしい。センターの子とは休演日にパリに遊びに行く約束までした。
帰路に着いた私はマイン川の護岸に腰掛けた。隣には新しくできた友だちがいる。群青色のマイン川には星と街の明かりが気持ちよさそうに揺らいでいた。
「私、今日初めてお酒飲んだの。一緒に飲めてよかった」
彼女はいつもの険しい表情とはかけ離れた開放的な笑顔でそう言った。
あまちゃんの私にはよくわからないけれど、彼女はプレッシャーと隣り合わせで生きてきたのだろう。
それから私たちは色々な話をした。2人とも髪の毛をブルーに染めてみたいという夢があった。彼女のアルバイト先のアパレルショップに私が通っていた偶然もあった。そして実はお互い話してみたいと思っていた。
「お酒の力を借りて友だちになるなんて、私たち意気地のない大人みたいじゃない?」
彼女のいたずらな問いかけに私は大人になるのも悪くないと思った。
向こう岸のベンチでは男女が熱いキスに夢中になっている。もう夜が深い。
私たちの身体からはまだほんのりアルコールの匂いがした。
火照った頬を風が冷ます。でも心はいつまでも熱を帯びたままだ。
日本に帰り、成人した今もビールを飲むとあの日の胸の熱さを思い出す。
2020年はガラスに映る自分と乾杯できるほど何かをやり遂げられなかったし、誰かと乾杯することも許されない世界になってしまった。
2021年、ビールを際立たせるスパイスをいくつ手に出来るだろう。
不安はあるが音楽がかかれば私の胸は高鳴る。
不安さえもスパイスにして。それはもう華麗なステップを踏んじゃうくらいに。