「おはよう」
朝6時、ラジオから流れてくる音楽に誘われて目を覚ます。寝室のある2階から、階段を降りて1階に行くと、キッチンでは、母がお弁当に卵焼きを詰めている最中だ。そして、カウンターを挟んだテーブルには、炊き立ての玄米ごはんと、具だくさんの温かい味噌汁。おいしそう。
「かけようか」
お弁当を作り終えた母が、私のごはんにかけてくれるのは、青のりを混ぜた納豆と、温泉卵。
「いただきます」
これが我が家流の、朝のルーティーン、卵かけごはん。忙しい1日の始まりを支えてくれている。
◎ ◎
待てよ。この、栄養バランスのお手本のようなごはん。これを毎朝せっせとこしらえる母は、何時に起きているのだろう。気になって、聞いてみたことがある。
「え、ママ?4時起きよ。毎日4時間しか眠れないんだから、もう」
しまった。気にしていることを聞いて、機嫌を損ねたかもしれない。
「でもね」
と、母が続ける。
「最初から、そんなことができたわけじゃない。若い頃なんか、1日中寝てるのが好きだった。結婚して、鍛えられたね」。
そうか。環境が変わることで、人は、精神力が試されて、大きく成長する。私も仕事の中で日々実感しているところだ。母の場合は、結婚して、仕事も子育てもしながらよりよい家庭を築こうと模索した結果、4時起きにたどり着いたらしい。もう、そんな生活を30年近く続けている。鉄人だ。これは、愛のなせる技だ。頭が下がる。
◎ ◎
もし私が同じ立場だったら、どうするだろう。
まず、朝起きるのが、大の苦手だ。4時なんて、眠たすぎて、目が開けられない。せめて、5時起きだろう。
そして、そんな状態で、ただでさえ慣れていない料理をするなんて、気が遠くなりそうだ。ぼーっとしながらバナナをかじるくらいが関の山だろう。しかし、何だか見た目にも、お腹も寂しい。それなら、白湯でも飲もう。これで許しておくれ。
こんなふうに、やる気なさげに書いているけれど、食べることは決して嫌いではない。時間がかかっても、不器用でもいいなら、料理してみたい願望は人一倍強いつもりだ。
まず何より、ほかほかのごはんを炊きたい。その上に梅干しを乗せたら完璧。彩りもいい。味噌汁は、豆腐とワカメが大好き。それから、やはり納豆は外せない。卵かけごはんも好きだけれど、お腹がすいている日は、納豆オムレツにしたらもっとおいしいかしら。
妄想は広がる。しかし、生活とは現実だ。毎日それを1人で続けることを考えると、それだけで疲れる。いくらやりたい気持ちがあっても、母のようにはうまく行かないかもしれない。途端に、心が重たくなる。どうしよう。
◎ ◎
そうか。母も、最初からできたわけではないと言っていたのだ。できることを、少しずつ、私のやり方でやればいいのかもしれない。もし何品も作れなければ、せめてごはんを炊こう。塩おむすびを握るだけでもいい。何もないよりは、お腹が満たされるだろう。それすらも疲れる日があったなら、家族と相談しよう。
もしかしたら、協力して作るとか、何かを買ってくるとか、私1人では思いつかないようなやり方も、あるかもしれない。何も、やらなければと思い詰めて、すべてを1人で抱え込む必要なんてないのだ。
たとえ料理が得意でなくても、作ることが嫌にならないような工夫があれば、楽しくできる。そして、楽しい気分で作ったものは、おいしくできる。都合のいい話かもしれないけれど、そう信じたい。
「一緒にやればいいじゃない」
遠くない将来、家族とそんなふうに言い合えたなら、どんなに素敵なことだろう。キッチンはきっと、それほど辛いものではなくて、みんなの笑顔があふれる場所になるはずだ。