土曜日に食べるオムライスは、ばあちゃんの味がする。父は単身赴任、母は土曜日出勤だった小学生時代、昼食を用意するのは、ばあちゃんの仕事だった。「お昼何が食べたい?」と聞くばあちゃん。「オムライスがいい!」と答える私。「またオムライス?」や「飽きないの?」なんて言葉は、ばあちゃんの口から聞いたことがない。いつも笑顔でうなずいてキッチンに立っていた。そんなばあちゃんの姿はもう見られない。見ることができない。

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祖母は私が小学6年生のころから、徐々に物忘れが増えていた。「今日は何曜日かな…?」ということが増えた。いつも忘れることがなかった、スクールバスのお迎えを徐々に忘れるようになっていた。

カレンダーの日にちにバツを付けて今日が何日何曜日かわかるようにしてみても、ばあちゃんは私に曜日を聞いていた。徐々にわからないものが増えていき、時計があっても「Aちゃん、いま何時かなぁ?」と私に聞くようになった。

そして気づいたら、ばあちゃんはキッチンに立たなくなっていた。母の帰りが遅い日に作ってくれていた、カレーも、カボチャの煮物も、ほうれん草のおひたしも作れなくなっていた。もちろん、毎週土曜日に作ってくれていたオムライスも作れなくなっていた。

当時の私は、ばあちゃんの認知症を悲しいというよりも、しんどいと思っていた。今までばあちゃんがしてくれていたことを、私がしなくてはいけないことがしんどかった。私が宿題に追われていても、何度も何度も時間や曜日を確認されてしんどかった。ばあちゃんの認知症を受け入れられていない父の葛藤をそばで見ていることがしんどかった。

だから私は、家にいる時間がどんどん短くなった。中学生のころは図書館の閉館時間まで居座っていたし、高校生になると終電で帰ることも少なくなかった。そして、高校卒業と同時に実家を出てひとり暮らしを始めた。私は実家から逃げ出した。認知症のばあちゃんから逃げ出した。

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長期休暇にたまに実家に帰ると、どんどんばあちゃんの認知症は進んでいた。分かることも、できることも減っていた。私が20歳を迎えるころには私の名前を忘れていた。長女の私に「1番上の…」とまでは言葉が出てくるけれど、その先が出てこない。

22歳になった今では、「誰かな…私の知ってる人かなぁ…?」と孫であることも忘れられている。でも、私は忘れられてホッとしている。すごく安心した。だって、あなたから逃げた孫のことなんて忘れてほしかったから。やっぱり私は、この時もばあちゃんの認知症に悲しさを感じなかった。

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そんな私が無性に悲しくなる時がある。それは、土曜日に自分の作ったオムライスを食べる時だ。毎週食べていたのに、ちっとも味の似てない私の作ったオムライス。でも、食べているうちに不思議とばあちゃんの作ったオムライスの味がしてくる。ばあちゃんがキッチンに立って料理をしていた情景が浮かんでくる。そして、もう二度とその光景は見られないのだと実感し、悲しみが訪れる。ばあちゃんには、私のことなんて忘れてほしいと思っているのに、私はばあちゃんのことを忘れたくないと思っている。

「祖母はまだ生きているのだから、新しい思い出を作れば…」と言われることもあるが、私にその選択肢はない。記憶できるものに上限があるなら、ばあちゃんから逃げ出した私との思い出よりも、いま大切にしてくれている家族との思い出を残してほしいと思うから。私のことは、名前も顔も忘れたままでいい。だから、大切にしてくれる家族とたくさんの思い出を作ってね、ばあちゃん。