「〇〇さんは頭痛で本日欠勤です」
と電話を切った上司が言う。
「またか、みんな忙しい中頑張ってるのにねえ」と同僚が言う。
「そんなに痛いのかな?そもそも本当なの?」と、もう1人便乗する人がいる。

仕事が辛いほどの頭痛は気の毒だし、それを理解されないのは可哀想

こんなやりとりを横で聞いている私は泣きたくなる。さっきまで4人で真剣に今日の売上について話していたのに。耐えられずに私は退席する。「ちょっと売場の様子を見てきますね。お客様増えてきたみたいだし…」。ファストファッションの販売の仕事をして3年目になる。私が働く店は大きく、従業員も多い。

〇〇さんは月に一度か二度は頭痛で休む。出勤している時はとても元気そうなのに。そして欠勤した次の日はみんなに謝って回る。そんなに頻繁に、仕事に行くのが辛いほどの頭痛があるなんて気の毒だと思うし、それを理解されないのはとても可哀想だと思う。もちろん、彼女が欠勤したことにより私達の業務の負担はちょっとずつ増える。それに、頭が痛くても我慢して出勤する人もいる。しかし、彼女が頭が痛いと言うことは事実なのだ。だから私は特に迷惑と思わない。体調が悪い時や何かがあった時は支え合うのが組織で働く人間として当たり前のことだ。

相手の感じ方を知る方法がないから、つい自分の価値観を押し付ける

「私は頭が痛いくらいで仕事を休まないから、あなたが休むのはおかしいよ」あるいは、「私はそんなに頻繁に頭痛が起こらないし、頭痛薬を飲めば治るから仮病なのではないか?」ということを、言いたい人がいるんだと思う。しかし、みんなこうだからとか、みんなも我慢しているからなんて比較は無意味だ。辛いという事実は事実。我慢大会じゃあるまいし。

私達はものの見方や感じ方など人によって全く違うということはなんとなく知っているけれど、ついつい自分の価値観を押し付けてしまう。それは、相手の感じ方を本当の意味で知る方法がこの世にひとつもないからである。頭が痛い、という相手に対して、自分の頭の痛みを想像してあげることしかできない。しかし、それが本当に相手の痛みと同じなのかは確かめようもない。

もしかしたら、売場に並ぶ様々な服の色も人によって全く別の色に見えているのかも知れない。4番の赤色、8番の青色、そんなふうに番号や名前で共有している色も、幼い頃から夕焼けの色は赤いとか海の色は青いとかで覚えてきたから共通の認識を持てるのであって、実は他の人の目には全然違う色に見えているのかもしれない。私の赤色はあなたの青色かもしれない。だから人によって好きな色があり、ある色の組み合わせを素敵と思ったり、そうでないと思ったりする人がいるのではないか。

誰とも分かり合えない、孤独な私達が救われるためには

視覚や痛みだけでない。味覚や嗅覚の感じ方の違いはもっと顕著だと思う。辛いものが大好物だとか、甘いものはちょっと…とか、あるいは油性ペンの香りが好きだとか香水の香りで具合が悪くなるとか、食べ物や香りの好みは人によって全然違う。

そう考えると私達は孤独だ。私たちが見えている世界、感じていることは唯一無二のものであるからこそ本当の意味では誰とも分かり合えないからである。

しかし分かろうと思うこと、分かり合えたと思い込むことでどれだけ救われるだろう。それをわかり合おうとする方法が言葉であり表情や身振りや声色であり、分かり合いたいと思う気持ちが思いやりや優しさなのである。だから私は自分自身のこの感性も周りの人の感性も一つ一つ大切にしようと思う。誰が言ったことも信じる。受け止める。全て理解することは出来なくとも、言葉を使って共有し、想像しよう。みんな孤独であるという事を決して忘れまい。彼女の頭痛がどうか、あまり辛くないものでありますように。