あぁ、とんでもなく落ち着かない。ただ、とんでもなく気分が良い。鼓動が速い。それをイヤホンから流れてくる緩やかな旋律が宥める。1つ1つの物音にビクッ、としてしまう。見兼ねた秋のセミが、ジーーー…っと他の音をかき消して、気を紛らわせてくれた。
誰か来るのではないか。見つかったら何と言い訳しようか。
…いや、もはやこの世界には、自分しかいないようだとさえ思えてきた。あぁ…。何て時間だ。心がざわついて、心中穏やかではいられなくて。それなのに、どこか優越感さえ感じてしまう、この愉悦極まりない感覚は、きっと、今しか感じられない。これから先何年経っても、きっと忘れることはないだろう。
時間がゆっくりと流れる。そろそろ10分くらい経ったかと思い、スマホの時計を見ると、まだ3分程しか経っていない。時間とは、こんなにもゆっくりと流れていたものだったのか。

足元の色褪せた枯葉。置かれた場所にいるのが息苦しいのは私も同じ

上を見てみる。木々の葉が揺れ、さやさやと音をたてている。右を見てみると、幾段も連なる階段の途中、アスファルトの隙間から顔を出す名も知らぬ雑草がいた。
左を見てみよう。数十メートル先の窓越しに、植物が大好きな理科教科担当の先生の横顔がある。職員室でパソコンとにらめっこ。
下を見れば…。足元に、色褪せた枯葉が1枚。私の頭の上では、黄緑色の葉が陽に照らされてきらきらと、それでいて穏やかに輝いているというのに。お前ときたら…。たった1人、この葉だけがここに落ちてしまったようだ。可哀想になあ、お前も、皆と同じように輝いていたかっただろうに。元は、あの葉たちと同じ場所にいたんだろうに、何でまたお前だけが…。
いや違うか。落ちてしまったんじゃない、“あえて”落ちてきたのか。周りのヤツらは輝いていて、自分だけがくすんでいて。今のお前じゃ、あんな所にいても、ただただ惨めなだけだよなあ。そうだよなあ。全く、不憫なヤツ。
でも分かるよ、その気持ち。今の私も、まさしくそうなんだ。置かれた場所にいるのが息苦しくて、この時間には普段誰もいないような、こんな所に来たんだよ。そうか、お前は今の私みたいなものか…。と、感傷に浸ったりしながら、気付いた頃にはこの場に来てもう15分が経とうとしていた。

言えばいいんだ、授業料を払えていないから授業に出るのが申し訳ないと

ふぅ…いつまでここにいようか…。と考え始めて1分足らず、「○○さん?」と私を呼ぶ声。…見つかってしまった。

「こんな所で何してるの?○○さんが授業をサボるなんて、どうしたの、何かあった?」
去年お世話になった、家庭科の先生だ。優しくて、生徒に寄り添ってくれて。私のことを、“いつも笑顔で明るくて…”なんて言ってくれていた先生。
そんな先生に向けて言う言葉は、「大丈夫です、何でもないんです。 すみません、ご迷惑をおかけしてしまって。教室に戻ります……(笑)」と。うん、完璧だ。
先生も、あらほんと?大丈夫?なんて言ってくれるから、大丈夫です!!と、思いっきり笑顔で返す。
さて、見つかってしまったからには仕方がない、教室に戻ろう。…言えばいいのだ。授業料を払えていないから、授業に参加することに申し訳無さを感じてしまうのだと。
進学校であるが故に、大多数いる周りの裕福な家庭のクラスメイトと、光熱費の支払いもままならないという自分の置かれた状況を比べて虚しくなってしまうのだと。授業が難しくてついていけないことも、親同士の仲が悪く家にいたくないことも。この学校の生徒であれば当然であるはずの大学進学など、家の経済事情からみて、到底実現出来そうになくて悔しいことも。将来が不安で不安で仕方がないことも。もうこの際、全部全部言ってしまえばいいのだ。何もなくなんかない、少しも大丈夫じゃないんだ、先生。あぁ、言ってしまえたらいいのに。
誰かに頼れたらいいのに…。

時には頼り頼られて生きていけば良いんだ。でも私は今も頼ることが苦手

恐る恐る教室に入ると、皆から一斉に笑われてイジり倒される。
「○○ちゃんどこいってたのー」
「授業サボってんじゃねーよ」と。
この人達は知らないんだ。私が今どんな状況にいるのか、どんな思いを抱えているのか、知る由もないんだ。でも、それは私も同じだ。私が教室に入ったとき、1番に○○ちゃん!!と言ってくれたあの子も、いつも皆を笑わせているあの子も、クラスの様子を見て微笑んでいるあの子も、人に話せない、何かがあるのかもしれない。そうだ、悩んでいるのは、悲しいのは、決して私1人だけじゃないはずだ。たとえ言葉にせずとも、互いを思い合って、支え合って、時には頼り頼られて生きていけば良いんだ。人間てきっと、そういうものなんだ。

とか何とか言っておきながら、あれから数年経った今も、相変わらず私は人を頼ることが苦手だ。
「授業はサボってはいけないもの」
そんなルールを、ほんのちょっとした出来心で破ることが出来たように、「他人に頼ってはいけない」という、無意識のうちに自分自身に課してしまっているルールも、破れる日は来るのだろうか。
いや、そんな日は来なくていいか。人に頼らずに済むよう、私は強くありたい。いや、でもやっぱり、ほんの少しだけ、誰かに頼りたいかもしれない…。などと思いつつ今日も私は、職場で誰に頼るでもなく、飲み物やらファイルやらダンボールやら、両手いっぱいに荷物を抱える。
前を見るのもやっとの状態のまま、フロアを移動。見事に書類を床にばら撒きましたとさ。
やれやれだね、と、あの日の枯葉に笑われた気がする。