私は、自分のことを普段「僕」と呼んでいる。派手な髪色と服が好きで、スカートが苦手。芝居に魂売ってて、コーヒーとガチャガチャ、そして上野が大好き。ぼーっとするのが好きで、表情が顔に出にくくて、声にして人に自分の思いを伝えるのが大の苦手。それゆえに人付き合いが苦手。可愛いと言われたいけど、かっこいいとも言われたい。恋愛対象は女の子、だけど男にはなりたくなくて、かといって女ではいたくない。できれば早めにお迎えに来て欲しくて、子供は好きだけど自分の子供は欲しくない。
私ってこんな人間だ。
「自分らしく生きよう」と言う癖に、自分らしくしていると小言を
側から見れば、いや、近くで見たって多分私は変なやつ。だからこそ結構キツい言葉をかけられたこともある。笑いながら「え、今、僕っていった?」といわれたり、「君は可愛げがない」「その考えはやばいね」とか。文字にするのも嫌なくらい、大人がそういうこと平気で言いますかね、といった言葉をたくさん受け取ってきた。
私は子供の時、「いじめ、差別はいけません」と大人にならった筈だが、大人になってからの方がそういう「差別まがい」なことが横行している気がする。
いや、差別というより余計なお世話、といった方がいいだろうか。自分らしく生きよう、なんて無責任なことを言う癖に、自分らしくしていると小言を言われる。なんて変な世の中。
でも、私は今幸せだ。
私がこう自分らしく振る舞いだしたのは大人になってから。今の仕事を本格的に始めてからだ。
憧れの先輩に「自分がどう見られたいかを考えな」と言われて
それまでは学生だったのもあり、大人に言われるがまま校則に従い、この業界ではこうしなさい、というものを素直に飲み込んできた。自分の意見はあったけどなるべく隠して、周りに従う。そうしていれば大人に何も言われないし、楽だったから。もちろん、その経験があったから得られたものもたくさんある。
けれど、卒業して社会人になった途端、私は私がわからなくなった。こうあれという偶像に加え個性を求められる矛盾の毎日。違和を感じながらその場凌ぎをする日々。どんどんわからなくなる自分と不安定な毎日に生きることも不安になっていた。
そんな状態の私に「周りがどうかじゃなくて自分がどう見られたいかを考えな。好きでこの仕事してんだから」と声をかけてくれたのは、当時出演していた舞台の座組の先輩だった。「人として頑張らないといけない場面はあるけれど、それ以外は自分の好きなようにしてた方がいいよ」
そういう彼女は普段から本当に楽しそうで、私の憧れの存在だ。
本来の自分に気づけた。外見も中身も誰に合わせる必要も無い
ずっと自分の中ではわかっていたはずのこの言葉を自分じゃない誰かにかけられたことで、私は何か吹っ切れたような気がした。自分のやりたいことを隠す必要なんてないんだと。
それから私は徐々に変わっていった。私の「なりたい自分」に。
スカートを履きなさい、こういう髪型にしなさい、こういう振る舞いをしなさい。自分が違うと感じたことにはあえて従う事をやめた。
そうしていると、周りからの反応も変わっていった。
「垢抜けたね」「楽しそうでいいね」「センスが好き」「かっこいい」「なんかかわいくなったね」「その考え好き」
先輩も「私は今のあなたが一番素敵だと思う」と言ってくれた。
自分が変わったことで私は本来の自分に気がつけた気がする。外見も中身も誰に合わせる必要も無いのだ。こうすることで新しい自分の一面にも沢山気がつけた。これからも「僕」は「僕らしく」自由に生きていきたい。