今となってはそれがいつだったのかは思い出せない。まだコロナが流行る何年も前の話、気軽にデパートに足を運んでいたあの頃。
CHANELで、初めて『デパコス』という名の化粧品を購入した。
コスメ売り場をさまよう私。母の香水を思い出し、入ったのは…
初めは、ちらっ、ちらっ、と、どうしたらいいのか分からず、そして、大してお洒落でもない自分なんかが入っていいのかも分からず、コスメ売り場をふらふらと歩いていた。
多分、周りの人には、自信のなさげで、怯えながら、しかも猫背で歩いてる、なんて滑稽な姿に見えていたかもしれない。
でも、ずっとそうしているわけにもいかず、私は一旦外に出て空気を吸った。そしてもう一度中に入った。
どれにしよう。
有名どころのCHANEL、Dior、資生堂、そのときは知らなかったCLINIQUE、シュウウエムラ、いろんなメーカーの文字が目に入ってくる。
そこで、ぽっと頭に浮かんだのが、母が使っていたCHANELの香水だった。
CHANEL、うん、CHANELにしよう。
恐る恐る近づく。肌が光っていて、姿勢もよくて、綺麗な女の人がこちらを見て口角を上げた。
初めてのタッチアップ。今までのメイクが嘘のように肌が綺麗に見えた
「あっ」
「なにか、お探しですか?」
「あ、ええと、目元がパッと明るくなるアイシャドウが欲しくて。自分に、自信を持てるように」
子どもみたいなことを言う私なんて、CHANELの顧客としてはふさわしくないんだろうな、なんて思ってると、「試されてみます?」と、声をかけられる。
「いいんですか?」
「ええ、ぜひ。いろいろ試してみましょう」
言われて、椅子に座った。純粋に、わくわくした。
「まずは下地とファンデーション塗るので、今つけている化粧は落としますね」
目を瞑ると、女の人の優しい手が肌に触れる。気持ちよかった。今まで、何回か誰かにメイクをしてもらった経験はあるけれど、こんなにふわふわした感覚なのは、これが初めてだった。
塗ってもらったあとの顔を見ると、今までのメイクが嘘のように、肌が綺麗に見える。
「今までアイメイクはどんな色を?」
「ピンク系、ですかね」
「それじゃあ……こちらはどうですか?」
見せられたものは、今までに使っていたものよりも少し濃いめのピンク色。
「お客様は、肌が白いので似合うと思いますよ」
「あ、はい、じゃあ、お願いします」
話していると、緊張が徐々にほぐれてくる。すると、さきほどまでは感じる余裕のなかった化粧品の香りが漂ってくる。独特な、だけど、心が落ち着くCHANELの香り。
終わると、そこには、いつもよりも目元の華やかになった自分がいた。
自然と伸びる背筋。化粧をすると顔だけじゃなくて、心も色づく
「わあ、いいですね」
「すごく印象が変わりますよね。唇にこの色を乗せると、もっと変わりますよ」
と言って、宝石のようにたくさんのリップの入った箱の中から一つを選んで、優しく私の唇の上にそれを塗っていく。
「いかがですか?」
目元のピンク色に合う、ピンク色のリップ。さっきよりも数段階、顔に明るさが灯る。
「本当だ。すごい、こんなに印象変わるものなんですね」
はい、と、その人は微笑んだ。
さっきまで猫背気味だった私は、背筋が自然に伸びる。鏡に映る表情も、頬がキュッと上がって、生き生きとして見える。
「あ、あの。アイシャドウとリップ、購入します」
「はい、ありがとうございます」
その人は、他にも化粧品やファンデーションのサンプルを袋の中に入れてくれた。
あのとき、勇気を持ってコスメカウンターに行ったことで、自分自身にも自信が持てるようになった。化粧をすることで、顔だけじゃなくて心まで色づく。心が色づくと、まっすぐ前を向けるようになる。
今も、朝はCHANELの香りとともに化粧をして、会社に行く。
今度は何を買おうかな、どんな色に挑戦してみようかな、化粧は、私の人生の楽しみの1つになった。