ふるさと。多くの人は生まれ育った懐かしい場所、心の拠り所となる安心できる場所を想像するのだろう。
実家はある。両親も健在だ。
だけど、あのいつでも曇って灰色をした街や、沈黙が張り付いた家の中、口を開けば「仕事はどう?」だの「子どもはいつ?」だの初めて会う人並みのよそよそしくて図々しい会話しか成立しない両親のいる実家を、ふるさととは思えない。
生き方や相手に求めることの相違から、両親とは実質縁を切った状態
両親とは、結婚を機に実質縁を切った状態だ。法事など、無遠慮で知りたがりな親戚達が集まる機会には多くを詮索されないために『普通』を偽って出席することもあるが、両親とは普段全く関わらない。
最後に会ったのは2年前の祖父の一回忌の時だ。あけましておめでとう、誕生日おめでとう、といったお決まりのメッセージのやりとりさえしない。
なぜこんなふうになってしまったかというと、短く言えば、互いの生き方や相手に求めるイメージの相違だ。
両親は、子どもは親の言うことを聞き、家を継ぎ、かいがいしく親の世話をして後に看取るという人生が当然と思う人たちだった。
対して私はそうではなかった。自分の人生は自分で決めたかった。自分で選んだ人と結婚し、自分で選んだ地で働いて生活するのが幸せだと思っていたし、今でもそう思っている。
老後の親の介護は考えていない訳ではないが、そのために現段階で選択肢を狭めるつもりはなかった。
「困った」。結婚発表したい私への父の第一声は、私を深く傷つけた
「紹介したい人がいる。結婚を考えている」
そう伝えた時の両親の反応は今でも生々しく覚えている。
父の第一声は「困った」。
次の言葉は「お前は30歳くらいで市役所勤めの男性と見合いをして、地元に住んでほしかった」。
母も全面的に父の側に立ち、私に説得や説教をして、何とか地元で婿をもらって自分達の側へ置こうとした。
三姉妹の末娘が、付き合っている相手の存在を匂わせないままに突然結婚を発表したのだから、驚きや戸惑いはもちろんあるだろう。
しかし、彼らの正直な反応は太い鉄の槍で胸を貫くかのように私を深く傷つけた。
そんな時に唯一味方になってくれたのは、父の姉、伯母だった。
伯母は、このがちがちに凝り固まった地元から離れ、都会で1人、寝食を惜しんで働いてきた人だ。幼い頃から可愛がってくれ、第二の母ともいえる存在だ。
大学生時代には、幾度も都会に招いてくれ、一緒にお洒落なカフェでスイーツを食べたり、なじみの洋服屋で(心配になるほどたくさん)買い物したりした。
喜びや悲しみを素直に表現する人で、自らの使命を固く信じて突き進んできた。こうと決めたら曲げず、それは私たち姪に向けた愛情にも言えることだった(要は溺愛されてきた)。
両親と伯母の間に確執があることも知っていた。だけど、昔から伯母のことが大好きだった。
結婚を報告した時には、涙を流して「本当に良かった。幸せになってね」と言ってくれた。親族の中でたった1人、喜んでくれた存在だった。
飛んでいきそうな私の気持ちを繋ぎ止めてくれる、伯母というふるさと
コロナ禍の前には配偶者とも一緒に伯母を訪れた。
渋谷の新しい匂いのする劇場でクリスマスショーを観たり、スカイツリーで普段はしないポーズで写真を撮ったり。銀座のブランド店でキラキラ光る宝石を試着させてもらったりもした。クローゼットに仕舞いっぱなしの『特別な時に着る服』で、フレンチのコースを食べた。
非日常の世界で、身に余る体験をたくさんさせてくれた。
翌日にはまた地方に戻っていつも通りの生活だと分かっていても、ここに来れば無条件に甘やかしてもらえる。そう思えた。
田舎の母ちゃんの味噌汁が染みるとか、近所の駄菓子屋のフーセンガムが懐かしいとか、そういう類のふるさとではない。
だけど間違いなく私の心を支えている。強風でどこかへふらふら飛んでいきそうな心を、華奢で重たい金のチェーンで繋ぎとめられているようだ。
故郷をふるさとと思える日は、近くないかもしれない。だけど、いつかその日がくると信じたい自分もいる。
それまでは、ふらふらしながらも繋がる先があることを忘れずにいたいと思う。