私が書道をはじめたのは10歳のときのことだ。それから毎年いくつかの作品展や昇級試験に作品を提出し必ず入選していたから、友人の間でも先生の間でも、私といえば書道であり、私自身も書道にアイデンティティの殆どをゆだねていた。
さて大学卒業がみえてきて、ついに就職について考えなければならない時期になった。
書道の「キャリア」は約12年ほど積み重ねられていた。
書道は個人的に取り組むだけで楽しいし、仕事にするつもりはなかった
とはいえ、書道を元手に生活するつもりはなかった。有段者がその一芸で食べていこうとするとせいぜい書道の先生になるしかないのだが、甲斐性のない自分が教員に向いているとは思えなかったから、教員免許を取るための課程は早々に諦めていた。
書道はプライベートの時間に取り組むだけで充分楽しいし、なにより面白そうと思った仕事は書道と全く関係がなかった。
女性の社会進出やそれに伴う弊害を取り扱った記事や書籍を読むにつけ、女性の自立した生き方について考えざるをえないというのは、いまや女子大生の通る道のひとつになっているのではないだろうか。私は男勝りにとにかく働いて出世して、おじさん共を追い出してやろうと息巻く「たち」であった。外国語の勉強も苦ではなかったから、適当に就職しお金を貯めてから海外に行っても良い。
そう考えるようになっていたころには、私のアイデンティティに占める書道の存在感はさほど強くなかったのだろうと思う。
「早く結婚して」。先生の一言が、高揚していた私の気分を地に叩き落す
ちょうど時を同じくして全国規模の大きな書道展があり、それに向けて作品制作に励んでいたときのことである。書道家の間ではとても有名な先生から自分の作品を添削していただく機会があった。
私はその先生のことを心から尊敬している。先生の字の流麗さはもちろんのこと、穏やかな話し方も、常にしゃんとした立ち居振る舞いも、何もかもが私の「先生」になっているお方なのである。
しかしながらこの先生の一言が、高揚していた私の気分を地に叩き落した。
「早く結婚して、書道に専念できるようにおなりなさい。大丈夫!すぐに良いお相手ができますよ。貴女は良い奥さんになりそうですから」
書道を極めるために仕事は邪魔なのだろうか。書道を極めるために結婚しなければならないのだろうか。
もちろん書道のことは好きだ。書けば書くほど上手くなるのも事実だった。
しかしこのとき、「書道に人生を左右されるのは嫌」というはらわたの煮え滾る強い嫌悪感が生まれた。「これまでずっと時間もアイデンティティすらも書道に捧げてきたくせに」と自嘲もした。
そのあとすぐ、書道をぱったりやめたけど、後悔したことは一度もない
そのあと間もなく、私は書道をぱったりやめた。
先生が悪いとはちっとも思っていない。御年80を過ぎた先生の生きた時代と私の生きている時代では、女性の生き方はまったく違うと理解している。先生がいかにして今の立場になったかという経験による助言であったのだろうとも思う。
しかしながら私は先生にこう言い返したかった。
「書道のためだけに人生を最適化してほかを捨てるなんて、まっぴら御免なんです」と。
私はもはや書道だけの人間ではなくなってしまった。「あれも、これもやってみたい」という気持ちにまかせて行雲流水のように生きることを選んだ。
あのとき言われるがままに書道を続けていたら、もしかすると私は有名な書道家になっていたかもしれない。ただのサラリーマンでない自分になっていたかもしれない。
ときには、何かを一筋に取り組み続けることができるのは特別な才能で、途中でドロップアウトした私に才能はない、と思うことはある。
けれど書道をやめたことを後悔したことは一度もない。「やってみたい」という欲を殺して生きるほうが、ずっと後悔する気がするのだ。