産んではいけないのかもしれない。
子ども好きな母親から「早く孫の顔が見たい」と言われ、10代の頃から結婚・出産についての期待をほのめかされてきたが、私の中では違う考えが育っていた。
私は、子どもを産むべきではないのかもしれない。

「子どもを産まないほうがいい」と思う理由はたくさんある

それなりに恵まれた家庭に育ち、そこそこ楽しく生きてきた。
「自分は生まれてこなければよかった」と思ったことは一度もない。
だから、決して悲観的な意味や自己否定的な意味ではなく、素朴な疑問として思ったのだ。
「どうしてみんな子どもを産むのだろう?」と。

「子どもを産まないほうがいい」と思う理由はたくさんある。
例えば、私は非正規雇用で働いていて、収入が安定しない。出産に際して休暇がとれる保障もなく、出産後仕事に復帰できる確証もない。
十分なお金が無い中で子どもを育てていると、きっと自分にも子どもにもあらゆる我慢を強いることになる。健康な生活を送れないかもしれない、望むレベルの教育を受けさせられないかもしれない、抱いた夢や憧れを諦めることになるかもしれない……。
生まれてくる子どもの目線に立って考えると、「生まれる」ということ自体が、大きなリスクと隣り合わせなのだ。

対して、「子どもを産んだほうがいい」と思う理由は、どう転んでも親側のエゴでしかない。母親に孫の顔を見せたいから、子育てをしてみたいから、跡継ぎが欲しいから……。どの理由も、生まれてくる子どもの立場で見ると「知らんがな」という話だ。

それでも、出産は多くの場合「善」の行為とされていて、さらには「喜び」であり「幸せ」なことであるとすら言われる。そこに疑いを持つというだけでも、眉をひそめられることだとわかってはいるのだ。

パートナーと出会い、ようやく産んでみたい気持ちの一端に触れたけど

素直な気持ちを言おう。私には、子どもを産み育てる自信がなかったのだ。
子どもの人生が幸せなものにならなかったとき、「どうして自分を産んだのか?」と問われて返す答えが、私の中になかったから。

私には現在、同性のパートナーがいる。
心から人生を共にしたいと思える相手と出会って、私に初めての感情が芽生えた。
「彼女との間の子どもなら、産んでみたい」

今の医療技術では叶わない夢。それでも、出産について前向きな気持ちが生まれたことは、私の中では大きな変化だった。
大好きな人の血を引く子どもと出会ってみたい、その子が幸せな人生を生きるよう全力でサポートしてみたい……。
今までずっと謎だった「子どもを産みたい」という気持ちの一端に、ようやく触れることができたのだ。

それでも、私は彼女の子どもを産めるわけではない。
女性同士のパートナーが子どもを育てたいと思ったら、第三者である男性からの精子提供(あるいは性行為)によって子どもを産むか、養子を迎えるか、という手段しかない。いずれにせよ日本の法律では、「私と彼女と子ども」という三人で家族関係を結ぶことはできないのだ。

繋がった私の気持ちと母親の願いが、叶う可能性はゼロに近い

ずっと孫の顔を見ることを望んでいた母親。小さい子どもが好きで、子どもの世話をするのも好きで、「もしあなたが子どもを産んだら……」と理想の未来を想像しては楽しそうに語っていた母親。
その期待に応えられないことでずっと悩んでいた私。「申し訳ないけど、子どもを産みたいとは思えない」と正直に言ってしまい、悲しそうな母親の顔を見てさらに苦しんでいた私――。
自分の気持ちと母親の願いが、20数年かけてやっと繋がったのに、それが叶う可能性は今のところゼロに近い。

出産への私の思いは大きく変化した。

産んではいけないのかもしれない。
彼女の子どもであれば、産んでみたい。
私には、子どもを産むことはできない。

きっとこれからも思いは形を変えていくことだろう。今のこのほろ苦い気持ちも、いつかは変わっていくことを願いたい。