ずっと捨てられないもの。それは捨てるものか、あげるものか、捧げるものか?
それに付随する正しい動詞はなんなのか?あなたはどうだったのだろうか?そして私は?
処女の話である。

チャラく見られるが、23歳で年齢イコール彼氏いない歴の私

モテないわけではなかったし、興味がなかったわけでもない。
ただ勉強や部活、学校の行事やその他の課外活動に忙しく、または闘病生活を送っていたら、気づいたら私は23歳になっても、年齢イコール彼氏いない歴であった。
一見見た目はチャラく見えるが(高校時代は金髪のギャルで、そのせいか援助交際の声をかけられたことすらある)、根は真面目な性格のため、その場限りの関係も持ったことがなかったため、男性経験も23歳までなかったままであった。

ただ単に縁がなかっただけであるが、そんな私の周りには、ありがた迷惑なアドバイスをしてくる男友達が多かった。
「お前そろそろ恋すれば?良い年なんだし」と上から目線で説いてくる中学の部活仲間、「キスやハグすると寿命延びるらしいよ」と眉唾物の疑似科学を教えてくれた知り合い、中には「俺が教えてあげようか?」といったセクハラをしてきた人、「実は女が好きなんじゃない?」と訳知り顔で心配してくれる男の友人もいた。

「処女」とはずっと捨てられないもので、早く捨てたいもの

どのアドバイスにも、いつも他の話をしているときにはない、独特の湿度とねっとりと身体にまとわりつくようないやらしさ、気持ち悪さがあった。男性器を女性器に入れられたことがない、それだけなのになんでこんなに下に見られなくてはいけないのだ、と反発心を覚えた。

しかしそれ以上に、23年も生きてきて、体を触りあえるような心を許した特別な存在がいないこと(それは相手が男性でも女性でも)、その自分の対人関係の経験の薄さに劣等感を覚えた。セックスをしたことがない、そしてする相手が作れなかったことに、自分ってどこか欠落しているのではないか、と落ち込んだのだ。

当時の私にとって、「処女」とはずっと捨てられないもので、早く捨てたいものであった。
一日一日と「処女」でいることが延びるにつれ、その重さと重要性と存在感は私を圧迫していった。

そんな私も23歳にして初めて彼氏ができて、とうとう「その日」が来た。
正直な感想は、あっけなかった。本当に大したものではなかった。
処女であるころは、セックスをして「女」になれば、価値観が変わり、人生が変わるものだと思っていた。よく言う、周りの世界がピンク色に見える、というやつだ。
でもそんなことはなかった。

捨てる、あげる、捧げるでもなく。主人公は自分なのだから「する」

私にとってセックスと処女は、「捨てる」ものでも、「あげる」ものでも、「捧げる」ものでもなく、「する」ものであった。
それまで捨てる・あげる・捧げるという動詞でイメージするものは、相手に任せ委ねた受動的で感動的なものだった。でも、本当はそのどれでもなく、自分から動き作り上げていく、「する」という能動的で日常的なものだったのだ。

晴れて処女でなくなり、それ自体に肩の荷が下りたような、ほっとした気持ちを抱いたことは事実だ。でも私の人生にとっては、「する」ことが人生の中心となる、そんな大きな意味はなかった。
だから今、昔の私のように処女で焦り、劣等感を抱いている人がいたら、「そんなに大したことじゃないよ、だから焦るな」と声を掛けてあげたい。卒業した人の上から目線のアドバイスと嫌がられるかもしれないが。
ただ、非処女であることの一番の利点は、このような上から目線の「ねっとり」とした湿度のあるアドバイスをされなくなることだ。一人一人の性体験の経験なんて千差万別なのに、なにを「処女か非処女か」という二元論で語ることができると周りは考えているのだろう、と今なら逆に馬鹿にしている。

捨てるでも、あげるでも、捧げるでもなく。
いつだって自分の人生の主人公は自分なのだから、「する」のだ。
23歳でデビューした遅咲きの私が、こんないっぱしのセックス論を語るようになったと、当時の私に伝えたら、多分大変驚くだろうとは思うが。