今回のエッセイを執筆するにあたり、はじめに私の家族、特に母に謝りたい。
このエッセイはきっと家族を傷つける。
20代後半になり、私が社会人として働けるようになったのは、やはり家族の支えが大きかったと思う。高校を卒業して地元を離れるまで私のことを育ててくれ、大学に入学して勉強できたのも、家族の経済的支援があったおかげだ。特に、留学や大学院進学を許してくれたことには頭が上がらない。
しかし、私は幼い頃から、どうしても家族と過ごす日々を「幸せ」だと感じることができなかった。
母にとって、家族と過ごす生活はストレスフルだっただろう
幼少期の家族構成は、父、母、弟、祖父、祖母、私の6人家族だった。
もう少し具体的に紹介しよう。
昭和的な亭主関白の父と祖父。家事はほとんど手伝うことがなく、些細な身の回りのこと(例えば、自分の食後の食器をシンクに移すこと)ですら母や祖母に任せっきりだった。家族内のトラブルがあった時に、父と祖父が殴り合いの喧嘩をしたことを今でも忘れられない。
母の姑である祖母。祖母も昭和の人間なので、女が男に仕えるという考え方を持っていた。祖母は母に対する小言が多く、幼い私と一緒にいる時ですら母に対するネガティブな小言をブツブツ呟いていた。
生まれつき知的障害を持つ年子の弟。早い段階で障害者手帳を持っていた。障害が相まって、小さい頃は自宅の環境にすら馴染むのに時間がかかった。かんしゃくを起こしたり、家のものを壊したり、高いところから落下しそうになったりしてた。
そして母。このような家族と過ごす生活はきっとストレスフルだっただろう。そのせいか、父のここが嫌い、祖父母の世話が大変など、家族に対する愚痴を私にぶつけることが多かった。
大人になった今でも私を苦しめる、忘れられない母の言葉
幼い私に対する母の数多くの発言の中で、どうしても忘れられない言葉が3つある。それは、大人になった今でもふとした時に思い出し、私を苦しめる。
1つ目。母と口喧嘩をし、私が「私のこと好きじゃないの?」と聞いた時に「好きじゃない」と言われた。「好きじゃない」とは「嫌い」ということ。当時の私はそう解釈した。
2つ目。母が晩ご飯の準備をしていた時だっただろうか。母の様子を見る私に対し「弟と自分のことで精一杯だから、お前の面倒は見れない」と言った。母も人間だから自分の時間も作りたいだろう。まして、弟の育児に試行錯誤していたから、私は後回しだったのだ。
3つ目。母が少し嘆いた様子で「父と離婚したいけど、お前たちがいるから離婚できない」と呟いた。当時の母はきっと父を嫌っていて、その雰囲気を感じていた。私たち姉弟がいるから、母は自由な選択ができなかったのだ。
これらの発言は、幼い私には純粋に悲しかった。「好き」の一言が欲しかった。良いことをした時に褒められたかった。
どうすれば母は私を受け入れてくれるだろうと考えた結果、私は「いい子」になることにした。
大人になり、母が当時どれだけ辛かったか想像できる
私の考えた「いい子」は母にとっての「いい子」ではなかったかもしれない。しかし、それでしか母を救うことはできないだろうと思った。
私は人に優しくなろうとしたし、小学校に上がってからは勉強も頑張った。しかし、「いい子」を演じ続けるにつれ、私の心も段々と歪んでしまった。その歪みは成人するまで私を苦しめた。
現在。私は「いい子」から解放され、少し大人になった。年齢や経験を重ねるにつれて、当時の母がどれだけ大変で辛かったか、身に染みるくらい想像できるようになった。
母は必死だった。そして、私を含めた家族全員が不器用だった。
現在の家族との関係性は良くも悪くもないと思う。今後は人並みと言えるような家族関係を構築していくだろう。
しかし、家族との時間を幸せだと感じられる自信はない。そもそも「家族がいる幸せ」が未だによく分からない。
そして、母の言葉を一生忘れない。当時、自分の存在に悩み、悲しんでいた幼い私を抱きしめるために、心のどこかにずっと置いておこう。