私は大学3年生。都内の大学に通っている。環境活動を行うサークルに入りながら、持続可能な地球環境の在り方を模索している。
とまあ、こんな調子で聴き心地の良い自己紹介をすると、時たま相手からは「意識高いですね~」というお褒めの言葉を頂くことがある。

決してそれらの賞賛を非難したいわけではない。相手もポジティブな意味で褒めてくれているから。ただ、環境活動をしている人が全員「意識高い系」である必要はないと私は考えている。

今は環境問題における「正しさ」よりも、自分の中に芽生える「楽しさ」を優先しながらエコ活動に勤しむ私だが、ちょっと前は完璧を目指して苦しんだこともあった。当時のことをふり返りながら、私が考えるエコについて書いていこうと思う。

環境のため、お肉なし食生活を送る私は「正義」だと思っていた

私が環境問題について興味を持ったのは大学に入ってから。入学と同時にコロナ禍の影響でステイホームを余儀なくされて、見事にグレた。そんな中でも、何か活動をしたいともがいていた。
そんなとき、YouTubeやSNSの投稿で、畜産業が環境に大きな負荷をかけていることを知った。
普段おいしく頂いているお肉が、実は環境に良くない形で生産されていた……。その事実に衝撃を受け、徐々に環境にやさしい食事について調べるようになった。
そこで私が行き着いたのは、お肉を食べない食生活である。大学1年生の夏頃から、お肉を食べない生活を始めてみた。それと同時に大学の環境活動サークルにも入会し、本格的に環境活動を始めるぞ!と鼻の穴をフガフガ膨らませた。

だが、お肉を食べない生活は、想像していたよりも難しかった。
小腹が空いてコロッケを食べようと思ったら、そこには細かーく刻まれた肉がちりばめられている。コロッケ却下。
友だちとオシャレカフェでランチを食べるとき、メニューを開いてみる。そこに書かれているのは、「チキンソテー」「ごろっとボロネーゼのパスタ」「自家製ハムのチーズトースト」……。おいしそう。じゃなくて、全部お肉だから、却下。
とまあこんな調子で、食べられるものの選択肢が一気に狭まる。それでも「負けるな、自分!」と自身を鼓舞しながら懸命にお肉なし生活を続けていた。

そうしてお肉を徹底的に避け続ける生活を数ヶ月続けていた。それは実家で親の作ったおいしいご飯を食べるときもだ。
お母さんが具沢山のとびきり美味しい焼きそばを作ってくれた時は、主役級の具材である豚肉を箸ではじいた。ある日はコクが奥深く染み渡るカレーを作ってくれたとき、贅沢に盛り込まれた牛肉のブロックを丁寧にはじきながらルーをよそった。
今振り返ると、作り手に対して失礼なことをしてるとつくづく思う。でも、あのときはそれが私にとっての「正義」だったのだ。失礼だろうと徹底的にお肉をはじき、地球にやさしい食生活を送る私は「正義のヒーロー」だと思っていた。

100%じゃなくていい。私は「正しさ」よりも「楽しさ」を優先する

ところが何気なくInstagramをスクロールしていたとき、衝撃的な言葉に出合った。
それは、「正義の反対はもう一つの正義」という言葉。そこで、私の「エコ」に関する考え方がぐるりと変化した。
やりすぎとも言えるお肉はじき生活を送る私の正義以外にも、ゆる~くエコな食生活を送るという正義も存在する。もちろんそれ以外にも数え切れないほどの正義があり、1人ひとりがそれぞれの正義を胸の奥で大事に育てているんだと思う。
そして何が一番怖いって、自分の正義だけが「正しい」と思い込んで、顔面パンチをくらわすように相手の正義を徹底的に否定することだ。

だからこそ、私は「正しさ」よりも「楽しさ」を優先するようにした。
100%完璧にエコな生活が出来なくても、それを受け止めて68%とか、54%とかのエコ活動を楽しむようになった。
そう、まさに「意識高くなくていいじゃん系環境活動家」を目指すようになった。そうして、お互いの「正義」を尊重し合えるようなエコ活動が、地球にも人にも優しいんじゃないかな、と思っている。

環境活動は、ついハードルが高いものと思われがちだ。ストイックな環境活動は、もちろん素敵。でも端からみてそのストイックさが辛そうなものに写り、「私にはマネできない」と環境活動がネガティブなイメージになってしまうのは、とても悲しい。
というわけで、私は私なりのゆるいエコ生活を楽しんでいる。それは自分で自分の首を絞めたくないから。そして、相手の「正義」を顔面パンチではじくことなく、すんなり受け入れられるようにしたいから。そうしていつか、「意識高くなくていいじゃん系環境活動家」を堂々と名乗れる日が来たら嬉しい。