写真が美しく、文章も簡潔な図鑑。遠くへ思いを馳せた

「どこか遠くへ」の願望は、幼稚園の定期購読で入手したワイド図鑑シリーズがきっかけだと思う。
一番読んだのは「あそび」だが、次によく読んだのは「そら」「せかい」「むかし」、書店で買ってもらった番外編の「きょうりゅう」など。日常生活から遠いテーマの号によく手が伸びていた。

これらに関心を寄せるようになった理由の一つに、子どもが一人でアクセスできるほどインターネットは身近ではなかったという点がある。
壮大な話になればなるほど、本や子ども新聞の情報頼みになる。写真が美しく文章も簡潔なワイド図鑑は、小さな私の想像力を刺激するには十分だった。
VRもない頃の海なし県の幼稚園児は、「うみ」に描かれる華麗な南洋世界に圧倒されてしばらく視界が青く感じたものである。

おかげさまで、旅行はどこに行っても楽しかった。離島、山、フランスなど、非日常や異文化の香りが濃いところが特に面白く感じた気がする。
ちなみに、京都は街並みよりもミステリー探求の方に食指が動いた。鞍馬や貴船に残る天狗の史跡に立ち寄る時間がなかったことは、十数年経ってもとても残念に思う。

大学も地元ではなく「遠く」。東京ではなく異文化圏に絞り込む

漠然としていたが、その後目指したのはやはり「遠く」だった。
地元にも国立の総合大学はある。だが、高校中退で独学、宅浪でのセンター試験対策は現実的ではなかった。そもそも希望の専攻がここでは学べない。県外の私立大学という選択になるものの、進学先として東京はあまりにもベタである。その上、ドロップアウトの身では同級生にばったり会ったりしたら色々とやりづらい。
となると西だ。名古屋以西の簡単にはたどり着けないエリア。よほどの思い入れがない限り、私の地元では候補に挙がらない異文化圏である。叔母一家が転勤で数年いたことはあるが、受験の時点では伝手の全くないどこか遠くだった。

「蛍雪時代」の学部一覧表から絞り込み、オープンキャンパスは父と二人で乗ったこともない私鉄を乗り継いで泊りがけで参加した。
そのうちの一校に絞り込み、2月の新宿会場で入試を受けた。12月の模試までE判定しか出ていない。センター試験は一応受けたが、世界史以外爆死状態である。受験旅行5日目の夜は両親に土下座する用意しかできなかった。

合格しても拭えない自信のなさ。「異邦人、根なし草」になると思った

マイナー教科でライバルがいなかったせいなのか、結果的にご縁はあった。しかし完全なる異文化圏でやっていけるのかという不安がある。そもそも自分で志望して死に物狂いで勉強したという自覚や自負が感じられず、それが自信のなさにつながっていた。フランスでいうところの異邦人(エトランジェル)、根無し草(デラシネ)のような4年間になるのだろうな、と思っていた。

実際、壁はあった。小テストを返されたとき、先生は「なおして」という。東日本ではこの文脈は「間違ったところを見直せ」となる。しかし、関西においては「机の上を片付けろ」という意味なのだ。この違いが判らなくて、なんで自分だけあんなに怒られるのだろうかと首をかしげたのが懐かしい。

だが、人の気性はかなり合っていたと思う。新歓や授業のペアワークで東の出身だと話すと、結構驚かれた。当然近畿圏からの進学者が多いのだが、生粋の大阪府民にしか見えないと口をそろえて言われる。何故なのかは未だによくわからない。
私の知っている大阪は、好奇心が強くて元気な人が集うイメージだ。当時若干躁の傾向があったのが、そのように映った可能性はあるけれど。

漠然としたどこか遠くの町は、今や燦然たる第2の故郷

真相がどうであれ、いくらかあの評価で救われたのは事実だ。休学するほど生き方に自信がなくなったときも、1年半で戻ることが出来た。
異邦人でも根無し草でもない。あの地に根差した5年間で、何一つ成し遂げられないそれまでと決別したのだ。漠然としたどこか遠くの町は、今や燦然たる第2の故郷である。そこで今の私は育てられたのだから。

病気や障がいの問題がなければ、ずっと住み続けたかった。フランスで生まれ、イタリアのミラノを愛したスタンダールの様に。
今は第1の故郷で、かつての空虚を取り返すべく、仕事に邁進している。まずはこの地でなすべきことをしっかりと果たすこと。時期が巡ってきたら、もう一度そこへ行って新たな目標を見つけること。
ゆずれぬ遠い第2の故郷への愛ゆえに、今日も私は山に囲まれてせっせと働いている。