子どもの頃から、けんかをすると力で負けた。トラブルが起きて言い争いになると、弁が立たなくて負けた。とにかく争いごとには弱い。
そのせいか、自分がゆずれば解決するものは、迷わずゆずる。平和でいたい。
そんな私が珍しく、なぜかゆずらなかったことがある。
なぜだかわからないけれど、ゆずりたくなかった。そして、相手からゆずってもらった。そのことを、激しく後悔した。

手を挙げる。私で決まりかと教室を見回すと、もう一人いた

それは忘れもしない、中学1年生の秋。委員会のメンバーを決める話し合いでのことだ。
それまで、これといった希望はなかったが、直前になって図書委員会に興味を持った。出来るかどうか、わからないけれど、手を挙げてみよう。ひそかにそう決心していた。
給食委員会、放送委員会、広報委員会……。次々に手が挙がり決まっていく。私は、その時をじっと待った。
「はい、次。図書委員会、やりたい人は?」
司会の声に、えいっ、と手を挙げた。
よっしゃ決まりか。そう思ってぐるっと教室を見回す。すると、いた。私と同じように、おそるおそる手を挙げている人が。
何ということだ。その場で話し合いが持たれた。どちらか一方に決めなければいけなかったからだ。
しかし、何分経っても決まらなかった。どちらも、ゆずらなかったのだ。

喜ぶ私と、シュンとする相手。教室は静まり返る

「じゃんけんにしよう」
先生の一言で、じゃんけんをすることになった。争いごとには弱いが、ここは仕方がない。心を決めた。勝っても負けても、受け止めよう。
「じゃんけん、ぽんっ」
勝った。まさか勝てるなんて思わなかった私は、喜びのあまり、ニヤニヤしてしまった。そして、ふと相手を見ると、しゅん、とした、何とも説明のしがたい顔をしていた。
無理もない。やりたいと思って勇気を出して手を挙げたのに、じゃんけんに負けたというだけで、目の前で奪われたのだから。
そのことに気づいた私は、急に気まずくなって、出していた手を引っ込めた。教室も、たった今起きたことの大きさに、しーんと静まり返った。

「良かったね」
しばらくして、先生にそう言われて我に返った。しかし私は、どうすれば良いか、わからなかった。自分が勝負に勝ったことを、受け止められなかった。
本当ならば、勝負に勝ったとか、やりたいことができたというのは、喜んで良いものなのだろう。ただ、その時の私は、相手に申し訳ないことをしたという気持ちでいっぱいだった。大きく膨らんだ風船の空気が抜けるように、私の心はしぼんでいった。

やりたくて仕方がなかったのに、楽しむ気になれなかった

いざ委員会の仕事が始まっても、どこか気分は重たいままだった。
昼休みに図書室のカウンターに座る。人影もまばらでひっそりとしているからか、余計に憂鬱になる。
ごくたまに、本を持った生徒がやって来る。
そのたびに私は、あの人なんじゃないかしら、とヒヤヒヤして、目で追う。目の前で向き合い、違う人だとわかると、胸を撫で下ろした。そして、動揺した気持ちをおさえて、事務的な笑顔で本を受け取る。そんな日々が、半年間続いた。

あれほどやりたくて仕方がなかったことなのに、どうしても、楽しむ気にはなれなかった。それくらい、あの日あの時の相手の表情は、私にとって忘れられないものだった。
私が自分を主張することで、傷つく人がいる。
それは、生きていく上で、どこにでもあることなのかもしれない。
「そんなの当たり前じゃないか。いちいち気にしていたら、何も出来ない」
そう言われてしまうかもしれないけれど、争いごとに弱い私には、どうにも耐えがたい感覚なのだ。

あの頃と感覚は変わらず、ゆずることに慣れすぎてしまった

あれから10年以上の月日が流れた。大人になった今でも、その感覚は変わっていないかもしれない。
「あれ、お願い」
「あ、はい」
仕事を頼まれると、自分がどんなに忙しい時でも断れない。自分が断ってしまうことで、他の誰かが忙しくなったり、嫌な思いをしたりするのは、申し訳ない。そう思ってしまう。
納得いかないことを言われた時もそうだ。心の中で思うことがあるとしても、それを言ってしまったら相手の立場がなくなるのではないかと、ぐっと飲み込む場合が多い。
実際には、仕事を断ったくらいでは嫌われない。思うところを言ったとしても、せいぜい相手とけんかになるくらいだ。そうわかっていても、うまくいかない。何かと、主張するよりも自分をおさえる選択をしがちだ。
それは、良くない意味で、ゆずることに慣れすぎてしまったからかもしれない。
相手のことも大切にしながら、自分の意見もしっかり言える。そんな爽やかさが、私の永遠の憧れだ。