私が「ありがとう」を伝えたい人は、父だ。
私が父に一番感謝していること。それは、社会について考えるきっかけをくれたことだ。ここでの「社会」とは、戦争、平和、政治、差別、人権などを指す。これが、幼いころから私を取り巻く社会の関心ごとなのだ。
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最初に父と話をしたのは、アメリカのアフガニスタン侵攻についてだ。確か、私が小学2~3年生のころだ。家の居間に週刊誌が置いてあり、表紙の兵士の写真が目に留まったのがきっかけだった。
丁度そのころ、学校でも戦争の歴史を学び始めていた。戦争について質問すると、父はきちんと私に向き合って、戦争とはどういうものかを教えてくれた。そこには、子供だからといって適当にあしらうのではなく、社会について真剣に考えてきた父だからこその誠実さがあった。
父は普段から社会に関心を持ち、なにごともよく知っていた。さらに、学びの場にもよく出かけていた。戦争以外にも、差別や人権に関する講演会や勉強会に足を運んでいたのを覚えている。
家の居間には、差別や多様性をテーマにした漫画がよく置いてあった。子供だった私は、漫画だからという理由でその本たちを手に取っていた。そのうちのひとつに、外国人差別がテーマのものがあった。
海外から日本にやって来た男の子。彼は、排他的な日本の社会で傷付き、たくさんの悔しい出来事に苛まれていた。
当時の私は、海外の人と関わる機会がほとんどなく、彼らは謎のベールに包まれた存在だと感じていた。しかし、漫画を通して見る彼の姿は、私と同じように泣いたり笑ったりする年相応の男の子だった。今考えれば当然のことなのだが、当時はそんなことが気づきのきっかけになっていたのだ。
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私が反抗期に入り、父との会話が少なくなっても、社会については自然と話をすることができた。学校の授業で部落差別のことを学んだときは、真っ先に父と話した。自発的に学び続ける父と意見を交換したかったのだ。
父は、いつも私の知らないことを教えてくれた。それは、とても興味深く、ときにショックを受ける内容であった。しかし、知らないままではいたくないという気持ちが私を動かしていた。そして、新しいことを知るたびに己の無知を恥じ、胸中は無力感で満たされた。
けれど、私はずっと信じている。社会は変えられるのだと。「世の中そんなもの」などという諦めの感情は抱いたことがないし、抱き方もわからない。だから、毎回無力感に歯噛みするし、悔しさに涙する。この感情がなければ、私は死んでいるのと同じなのだ。
自分にできることはなにか。少しでもみんなが居心地の良い社会にしたい。どちらかと言えばおとなしい性格の私だったが、その想いの下でなら主体的に意見を発信することができた。私は、自分だけが良ければいいなんて社会は嫌だ。だから、周りに目を向け、考えるきっかけを与えてくれた父にはとても感謝している。
いつの時代にも、社会を変えようと努力してきた人たちの軌跡があって、今がある。父はその一部であるし、私もその一部になる。そして、これからの時代を生きる子供たちにも、そういった社会を見る目を養っていってほしいのだ。
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今は、今日を生きるのに精いっぱいで、他人に目を向ける余裕のない、そんな時代。考えることをやめ、みんなの心が死んでいく。けれど、それではだめなのだ。「時の流れに身を任せ」なんてセリフは、私の信念を真っ向から否定する、大嫌いな言葉なのだ。
私の心には、いつも炎が燃えている。火を着けてくれたのは父だ。けれど、その炎は私自身のものとなり、今の私を動かす原動力となっている。
もし私の書くエッセイが、誰かの考えるきっかけを作っていたら。父がしてくれたように、私も誰かの心に火を灯せていたら。誰かを動かす原動力の一部になれていたら。
私はそんなことを考えながら、今日も文章を書いている。