パァンと頬を叩かれ放たれた言葉。
「こんな子私の子じゃない!」
叩からたときの物理的な傷は一瞬で消えたとしても、心の傷は一生もの。

叩かれることは、幼い時から日常的にあった。ピアノがうまく弾けなかったり、時計が正しく読めなかったり、学校の荷物で忘れ物があったり、宿題が出来なかったり、些細なことでも、教育熱心だった母は、すぐに手が出た。
時に、物が飛んできて、あたりどころが悪くあざになってしまったこともあった。でも、そのあざも数日経てば消える。
物理的な傷は時間が治してくれる。でも、心に残った傷はいつまで経っても消えない。だから、ずっと心のどこかで自分の母親を信用しきれないところがある。
あざになった時も、あざについては深くは記憶にないが、「怪我したこと誰にも言わないで!」と言われたことは、今でも覚えている。

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私は幸いにも、金銭面や仕事面で、越えられない大きな壁にぶつかることなく、生涯を共に過ごそうと思えるパートナーと出会い、それなりに、小さいながらも成果を残してこれた。
母は、それに満足し、「私の育て方は正しかった」という。
そう…かもしれない。母的には正解だったであろう。
でも、私の中ではずっとモヤモヤが消えない。母親という権力。逆らえない、逃げられない、子の立場。叩かれても暴言を吐かれようとも逃れることはできない。出てけと言われて出ていこうとしたら、それはそれで平手が飛ぶのだから。
母の育て方は、母の中では正解だった。それに関しては、母が満足いく人物になれたということだから、よかったのだと思う。でも私は、母の思い通りの人間に育てられたことで、自分が操り人形のように感じられた。もちろん、自分の道を歩んできたつもりだが、母の目を気にしてずっと生活してきたというのも事実である。私は私の人生をきちんと歩めてきたのだろうかと、時々不安になる。

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今から20年前、ピアノのコンクールでミスして落ち込んで、母に怒られてから何かが変わった。母は私を軽蔑して見ていると感じた。父は異変に気づきながらも何も言わずに見ている。あからさまにできの良い姉を可愛がる。私は血縁上の家族であって、心の家族ではないように感じた。

コンクールの件があってから数ヶ月経ったあの日。
小学4年生の春。
結果の悪かった85点の分数のテストを隠して母の雷が落ちたあの日。
「役立たず!こんな子、私の子じゃない!」と言われたあの日。
そんな私を見てみぬふりをし、何も言わない父を泣きながら目にしたあの日。
あー、そうか。両親からしたら、コンクールやテストで失敗し、怒られるのが怖くて、隠しただけで、これほど必要とされなくなってしまうものだったんだと知ったあの日。
今でもずっと頭から離れない。どこの場所にいたかだって覚えている。
「怖い、生きることさえも怖くて辛い」
怒られるからではない。必要とされないことが怖かった。生きている価値がないと思えて、怖かった。しんどかった。辛かった。
私なんていなくてもいい。そう思えた。たった9歳で私の自己肯定感は消えた。
その頃にあった「自分さがし」という道徳の授業は、本当に苦痛だった。自分なんて価値がない人間だと思い、自分と向き合うことがただただ辛かったからだ。

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あれから私は長い長い年月をかけて、少しずつあの日の出来事に向き合えるようになった。あの日、私は4階屋上に1人で行き手すりに足をかけようとした。でも、それ以上のことはできなかった。でも、その選択は正しかった。
それは間違いなく正しかったと断言できる。
それは、今私は生きていることに喜びを感じているからだ。
あの日から、たくさんの大切な人と出会い、さまざまな経験を積んで、好きなことと出会い、充実した日々を過ごし、今が幸せだからだ。
好きな人と結婚して、新しい夢に向かって前に進む。
辛かった過去が消えることはない。でも、今から幸せを積み重ねることはいくらだってできる。
生きててよかった。前を向けてよかった。これから私は楽しいこと、嬉しいこと、いっぱい積み重ねて、幸せな家庭を築いていくんだ。