私は前頭葉の機能が低いのか、作品を観たり経験を通して涙を流したことがなかった。未だに悔し泣きと嬉し泣きがよくわからないし、映画を観て感動したり逆に悲しくて泣いたこともなかった。しかし、高校二年生のとき、YouTubeである曲を聴いて、私は初めて歌で泣いた。それがあいみょんの「生きていたんだよな」である。
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ちょうど邦楽を聴き始めた頃に、YouTubeのおすすめでこれが出てきた。知らないアーティストだったが、曲のタイトルに惹かれて軽い気持ちで再生した。初めて私を歌で泣かせることになる曲とも知らずに。
私のロールモデルとなるあいみょんとの出会いがこれである。「生きていたんだよな」を聴いたとき、私は泣いた自分に驚いた。なんで泣いているんだ、と一時感情の整理が追いつかなかった。でも彼女の歌はそれだけではなく、すべてが私の考えに酷似していたのだ。
芸能人の自殺が大々的に報じられるようになった時代、同時にその訃報が後を絶たなくなってきた時代。SNSでは「自殺は無責任だ」とか「追い詰めた奴らは殺人犯だ」とか、恐らく当人と関係の無い人たちが好き放題言う。それを傍から見ていて、少し腑に落ちなかった。
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自殺ってそんなに悪いことだろうか。確かに生き続けることほど尊いことはない。でも死に際を選ぶのは本人の自由だろう。周りがとやかく言うことではないし、本人にしか分からない辛さがある。彼(彼女)に「生きていればいいことあるよ」なんて言うことこそ無責任の極みだと思うのだ。
今でこそこうして言葉にして自分の思いを紡げる私だが、彼女のこの歌に出会うまでは自分が自殺に対してどう思っているのかを言語化できなかった。彼女の歌はすべて私を腑に落ちさせてくれる。そうだ、私はこう思っていたんだ。これを私も言いたかったんだ、と。
ここまでを読むと、ただのあいみょんファンの語りにしか聞こえないだろうが、私が何より彼女を真似している部分がある。
自らの歌を自ら手がける彼女は、ある物事を直接的な言葉を使わずに表現するのが得意だ。例えば、あいみょんの歌に「マシマロ」という曲がある。一見、かわいいポップな歌だが、歌詞を紐解いていくと実はエッチなことを歌っているのだ。
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曲の制作秘話を聞いて、執筆を趣味とする私は「これだ!」と思った。執筆においても表現力と語彙力は命である。しかしこれらを培うのは相当難しい。能力を明確に測れないし、典型的なトレーニング法が定まっていないからだ。本を読めとよく言われるが、あれはインプットするだけで終わってしまう。何事もアウトプットが一番大事だというのに。
私も彼女を真似して、一つのモノを直接的な言葉を使わず説明するトレーニングを常日頃から行っている。本を読んでは良いと思った表現を書き留めて、いつかその表現を応用して自分の言葉にする。最初は意識的なことだったが、いつの間にか無意識に行うようになっていて、私の頭の中はいつも言葉で溢れている(ちょっと疲れるときもある)。
あいみょんから、自分の本心と向き合う時間とクリエイティブを生み出す方法をインプットしている。いつかそんな私の作品が大々的に評価されたときには彼女に感謝の手紙を送りたい。