「アタイ、アンタ無しじゃ生きられない…でも、アンタってなんて厄介なんだい…」。

まるでメロドラマのセリフを心で呟く。けれどこれは愛しいけれど憎い罪な男にかける文句ではない。そもそも「アタイ」だなんて一人称、真っ赤な口紅も似合わない私には不似合だ。

じゃあ何に対してこんな風に思っているか?て。それは他でもない、私の髪へなのだ。

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私は生粋の天然パーマで。何故かいつも「聖子ちゃんカット」の如く髪がふわりふわりと膨らみ、ぴゅんっとこめかみあたりの髪が両サイド、八のように跳ねる。

末広がりはなんとも縁起がいいけれど、それが髪で発生すれば、何ともありがた迷惑である。今でこそヘアアイロンやヘアオイルに頼れるものの髪について悩みだした小学生の頃は大変だった。水で跳ねているところを鎮めようとするものの、鏡の前で口をへの字にした私を嘲笑うように髪はぴゅんっと天を仰ぐ。ボリュームは健在だ。

「聖子ちゃんカット」は時代をふたつまたごうとも伝説的に君臨する、愛くるしい松田聖子がするからこそ可愛いのであって、私の場合は「ライオンみたい」と言われていた。そもそもたてがみがあるのはライオンのオスじゃん!と思いつつ、「ライオン」と言われる度に「心配ないさ〜」とライオンキングのミュージカルを模した芸人の真似をしてみせたがこのまま私はライオンであり続けるのか…という焦燥感もあった。

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人間を動物に例えることは多々あるが、ライオンと称されるのはなんというかギラギラとした男性のイメージがある。小心者で気にしいの私に「ライオン」はどう考えても不相応なのだ。けれどこのたてがみがどうあがいても私をなんちゃってライオンに仕立てる。そんな中で知ったのが「縮毛矯正」だった。

当時クラスの女子の大半が読んでいた人気少女漫画雑誌「ちゃお」で連載していた「ビューティーポップ」という美容師を題材にした学園漫画があり、その作中にごわごわの剛毛の女の子の髪がサラサラのストレートになりおしゃれに変身する話があるのだ。

これだ!と思った。しかし近所の美容室で縮毛矯正をするには約1万円が必要だった。小学生にとっての1万円は超高額である。福沢諭吉になんて正月かお盆くらいにしか会えない。でもサラサラの髪に憧れたなんちゃってライオンの私は、お手伝いやテストでいい点をおさめることに成功し正月やお盆でもないのに福沢諭吉を呼び出し、縮毛矯正をした。

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よく考えたら小学生なのに「ませてる」「贅沢」かもしれないが、私は早くたてがみとオサラバしたくて仕方がなかったのだ。ひんやりした薬剤を髪に塗っては、流し、塗っては、流し、ヘアアイロンで伸ばされる…所要時間は2時間ほど、すべての工程が終わると鏡に映る自分にびっくり。髪がサラサラになり少女漫画のヒロインみたいにツヤが出ている。信じられず自分の髪を触る。ヘアアイロンの熱が残る温かい髪は、さらりと指の間を流れる。振り向いてみると髪がサラッと宙を裂く。感動すらした。

翌日登校するとたてがみと決別した私にみんな驚き、「似合ってる!」と言ってくれた。しかしシンデレラの魔法も解けるし、盛者必衰という言葉もあるように、永遠はないと、直毛がふわりと日に日に膨らむことで痛感した。縮毛矯正の効果は約半年でなくなってしまうのだ。再びライオンになってしまった私。そこからはコツコツとお小遣いをため、たてがみが蘇りつつある頃にはまた縮毛矯正をするのを、中学生、高校生と繰り返した。

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年齢を重ねるとバイト代や給与で私はたてがみを鎮め続けてきた。でも毎度1万円が飛んでいくのは痛いし、2時間も座りっぱなしでいるのも疲れるし、なんとも厄介ではある。美容室の予約の日は憂鬱。はじめて縮毛矯正をした日のあの感動はいずこ…薬剤香る、真っ直ぐになった髪で美容室を後にするときは、やっと半年延命したというような嫌な安心感とまた半年後にやるのかあという義務感でいっぱいになった。

けれど直毛でなくてはならないという一心で「はあ…」とため息をし、生まれつきサラサラの髪の人を恨めしく思い、これだけ薬剤をつけているのだから髪もなにか勘違いして直毛として生えてこないだろうか?と妄想きながらも、縮毛矯正をし続けた。まるでくせ毛がいけないもので、直毛が正義のようにそうあり続けた。

けれどここのところ…1年近く私は、縮毛矯正をしていない。そのことに対して明確な理由はない。失恋をして髪を切る人はいるように髪は心が現れているなんて聞くけれどそんな変化もなく、ただなんとなく縮毛矯正に行くのをやめた。

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「そろそろ半年かあ」とは思ったが、忙しいとなにかと理由をつけて後回しにし続けた。美容室に行くことはあれど「そろそろ縮毛矯正します?」のQに「あー…」と間抜けなAしか口をつかないのは、明確な理由がないけれどシンプルに面倒になってしまったのだ。

前は例え面倒でも朝早く、仕事終わりに駆け込んで時間を捻出したのにそれをしなくなったのはきっと直毛が全てではなくなったからかもしれない。人工的な直毛を知ったからこそ、ナチュラルなくせ毛もまあいいなと思えた。

世の中には「これがいいんじゃないか」という基本のモデルみたいなものがある。「太っている」より「痩せている」方がいいとか、「メガネ」より「裸眼」がいいとか、「ボーイッシュ」より「女性らしい」方がいいとか。それはテレビや広告で目についてきて、先入観の種を植え付けてくる。

私もくせ毛はいけないことのように先入観の種が芽吹いていたけれど、でも案外このくせ毛が嫌いではないかもしれない。まあそのうちまた縮毛矯正をまたしたくなる日が来るかもしれないけれど、そんな時もあってもいい、人の心は変わるのだから。

直毛にまたしたくなる日が来ても、くせ毛を嫌いにならなければい。自分を失わなければそれでいい。ふわりとした髪の私が映る、電車の窓…近くには美容外科の広告で「2重にすること」を促してる、まるで「一重」であるのがいけないみたいに。あちこちに潜んでる先入観の種。なくなる日は来るのだろうか?来る日を願いつつ、百獣の王みたいにその広告を睨む。