堂々と二股をかけられても、「あの子を好きになるのは不可抗力だった」と開き直られても、何度もクズ男だと思ったけれど、それでも、狂うほど好きだった彼は、コーヒー好きな人だった。
コーヒー豆を買って、自分で挽いて、自分でハンドドリップでコーヒーを淹れるような男だった。
誕生日に買ってあげたハンドドリップ器具を今でも使っているのだろうか。
安くない値段だから、「元カノにもらった」という理由だけではきっと捨てられないだろう。
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付き合っていた頃は、美味しいコーヒーが飲める店を見つけると、「あっ彼に教えてあげよう」と、 LINEを開いて、Googleマップのリンクを共有していた。
彼と別れて、彼と訪れたコーヒー屋やカフェには、もう行けなくなってしまった。
美味しいコーヒーを飲むと、 「ねっここのコーヒーすっごい美味しいよ」と元カレに伝えたくなってしまうから。
毎日コーヒーを飲む人だった私は、コーヒーを飲まなくなった。
思い出と別れとともに、コーヒーを断捨離した。
そんな私は、今、コーヒーが飲めないパートナーと一緒にいる。
もちろん、わざわざ、コーヒーが飲めない人を探したわけではない。
パートナーいわく、コーヒー好きだったけれど、大学院生の頃に急に飲めなくなってしまったそうだ。
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大学院での研究が大変だったのか、カフェインとアルコールに弱くなってしまったらしい。コーヒーだけではなく、カフェインが入っている飲み物を飲むと、お腹が痛くなったり、体調が悪くなったりする。知り合いの医師に聞いてみたけれど、カフェインアレルギーというのはないらしい。
もしかしたら、大学院時代の研究のストレスのせいではなくて、私と同じように、コーヒー好きの恋人と別れたことがきっかけなのかもしれないけれど、質問してみたことはない。もう過去のことだから気にしないのだ。
そういう訳で、幸運にも、コーヒーが飲めないパートナーのおかげで、昔の思い出が思い出されるようなカフェに行くことももうないのだ。
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一緒に暮らし始めたら、私が昔愛用していたコーヒーマシーンはどこに置こうか、いっそ売ってしまおうかなんて話をした翌日、私の長期海外出張が決まった。
行き先は、私が大学時代に留学した国。留学先と出張先、都市は違うけれど、まるで第二の故郷に帰るかのようで、少しだけ嬉しかったけれど私は憂鬱で仕方がなかった。
私はあの国が好きで、あの国で暮らすことが好きで、あの国の言語が好きだけれど、仕事で訪れたいと思ったことはなかった。
むしろ私生活の「好き」と仕事は切り離しておきたい。今の仕事は好きだ。
ただ本来私がやる必要のない、私の担当外の仕事で海外出張することになった。私が、あの国の言語が堪能という理由で。
助っ人として駆り出される。初めて仕事が理由で泣いた。
出張が決まった時にも、出張準備中にも、ふとした瞬間に、ポロポロ涙が溢れた。
フライトが深夜便で、昼間暇だった私は、出発の日にもパートナーに会った。
「頑張らなくていいから」と言うパートナーは、あまりに優しすぎた。
私は出張が嫌だという思いで泣いているのか、寂しくて泣いているのか、彼の優しさに泣いているのか、分からなかった。
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まだ日本を発っていないのに、 旅行と比べると長いけれど、留学に比べたら短い出張なのに、 今までの写真をニヤニヤしながら見返す私を彼は笑って「めっちゃ好きじゃん笑」と。 だから、「うん」と答えた。
「今日は、好きよりも、大好きって気分」だと。
あの時彼が言った「じゃあ私は愛してるよ」は、忘れられない一言になった。
すでにポロポロと涙が溢れていた私は、もう涙が止まらなくなった。
私を愛してくれる人がいるんだと。私って幸せ者なんだと。
出張中、どうせ一人だからと、久しぶりにコーヒーを飲んだけれど、何も感じなかった。
過去も思い出さず、ただコーヒーの味を楽しめた。
傷は時間が癒やしてくれる、まさにそうだと思う。
ただ、これからは、コーヒーを飲むなら一人の時間にしようと決めた。
誰かとの思い出のひと欠片があるコーヒーは、目の前にいる今大事な人と共有しない方が良い。
だから、これからもきっと、私はあまりコーヒーを飲まないと思う。