私はついこの間、片思いしている男性に告白をした。そして振られた。
私の片思いの相手は“推し“。いわゆる「ガチ恋」、「リアコ」というものだ。アラサーで推しにガチで恋をするなんてどうかしていると自分でも思うけど、どうしても気持ちが動いてしまったのだ。

◎          ◎ 

告白する手段がファンレターかDMしかなかったので、私はファンレターの方を選択した。
手書きの方が相手に自分の気持ちをより伝えられると思ったからだ。手紙の枚数は6枚に及んだ。彼と出会ってからわずか6ヶ月、少ない時間だったし、頻繁にイベントに行けていたわけではないが、たくさんの濃密な思い出が自分にはあった。

思いの丈をひたすら書いて、そしてその想いは儚く散っていった。
でも、この告白は自分の中で、人生の決意でもあった。私はこの界隈の推し活を17年続けている。歳はもう29歳。これからは、推しに全てを捧げるのではなく、一般的な幸せを掴みたいと思った。

恋愛して、結婚して、出産して…。それが“普通の幸せ”じゃないという意見があるというのも、もちろん分かっている。でも私はそのテンプレのような人生に幸せを見出していた。

だからこそ、体当たりで振られにいった。そうでもしないと、ズルズルと推し活を続けることになると分かっていたからだ。私は私なりの“普通の幸せ”を掴むために、推しに告白をするという道を選んだ。

◎          ◎ 

不思議なもので、絶対に玉砕すると分かっているのに、人間はいざ振られると、やはり落ち込んでしまう。嗚咽するほど泣いて、ずっと気持ちが沈んでいた。付き合えるわけなんかないのに、なんでこんなにも落ち込むのだと、自分でも分からなかった。
でも、この自分を傷付ける選択は自分の幸せのために起こした行動だ。

私は推しに恋焦がれる人生じゃなくて、結婚したり、家庭を築いたりしてみたい。もちろん推し活と家庭を両立している方もたくさんいると思う。

でも私は、推しに貢いでいる時は決まって、人生が順調じゃない。人生がつまらないから、推しに貢いでキャーキャー騒ぐ。そしてその場しのぎの幸せを手に入れてきた。人生が順調なときは推しの存在を忘れて生活していた。だから推しにどれだけ入れ込んでいるかで、自分の人生の幸福度が測れるのを自分自身で知っている。

◎          ◎ 

私はそんな自分から打破したいと思った。イベントに行ったり、曲を聴いたりしてその時は幸せな気持ちになったとしても、長期的な幸福感は得られない。

それは私が本質的に求めていることが、「一人の人から愛される」ということだからだ。私は今まで目を背けてきた現実と向き合おうと決心したのだ。単発的な幸せで心を埋めない。

一生自分の気持ちが安定できるような、心の拠りどころを探したい。片想いじゃなくて愛しあうということを経験したい。それが私にとって、パートナーを探すことであり、結婚や家庭を築くことなのだ。

◎          ◎ 

推し活という行為と決別した私は、もちろん喪失感に溢れていて、心にぽっかり穴が空いている。でも、自分が思い描く幸せを絶対に掴み取ってやるんだという前向きな気持ちもある。私のように無理やり自分の趣味や娯楽を引き離す行為が合っているのか、この選択が正しかったのか、今はまだ分からない。

もしかしてまた、推しのところへ戻っているかもしれないし、推し活をずっと続けている人生の方が幸せかもしれない。はたまた、パートナーを見つけ結婚できても、何か困難が待ち受けているかもしれない。今回私は、推し活との決別を選択したが、これからの自分の人生というものは未知である。