そのとき思ったことを何でも言い合える関係。それが私にとって母親との関係だと感じている。普段私は、あまり思ったことを口にしない。不機嫌でどうしようもないときもすごく幸せだと感じるときも、そこには母親がいる。私自身はまだ母親になる予定はなく、そういう未来をイメージしにくい。けれど、もし自分が母親になったときは誰よりもわが子の味方でいようと思う。

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高校時代、私は学校へ行くことに苦痛を感じていた。毎日が生き地獄なのじゃないかと思えるほど嫌で仕方なかったときがあった。特に、ほとんど毎日、単語テストに追われていたせいで母が作ってくれた弁当を食べることができないことが多かった。

それでも毎日、私が好きなケチャップパスタやエビフライが入った弁当を作って持たせてくれたのだ。もちろん、数学の授業が嫌で仕方ないことも英語の単語テストが苦痛なことといった、泣き言をすべて聞いてくれた。私にとって思春期で毎日が荒れ放題だったと言っても良い高校時代を、陰でそっと支えてくれたのは間違いなく母だった。

特に卒業後の進路を決める三者面談でのことを今でも私はよく思い出す。それは高二の夏休みに行われた三者面談の日に、担任から進路を聞かれたときのことだった。

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当時の私は、将来ブライダルプランナーになるための専門学校への進学を考えていた。上京先は漠然と大阪や名古屋。地元から少しでも近い近畿圏内で考えていたので関東は視野に入れていなかった。入試はできれば指定校推薦で受験に挑みたいと、自分のなかではぼんやりと、先行き不透明な未来について考えをめぐらせていたのだ。

しかし、そうした漠然とした考えはすんなり通らず、当時出席日数がギリギリだった私は担任から「指定校推薦は今のままでは厳しい。どうしても指定校推薦を狙いたいのなら、少しでも成績を上げた方がよさそうですね」ほんとうの私を知るはずのない担任が、先のことを全部知っているかのように告げたのだ。

このとき正直私は言い返したくても言い返せなかった。学校が嫌で保健体育の授業の単位が足りていないこと、次休んでしまうと卒業できない。そんなこと今、一気に言われたって何がどうかわるのだろう。毎日学校という狭い世界で、同じメンバーしかいない教室で黒板の文字を必死で授業内に書き写しているだけの「私」しか知らない担任に、私の未来などわかるわけがない。

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そんな溢れ出てくる感情をのみこもうと必死に耐えている私の隣で、母が一言ポツリと呟くように言った。

「そうですか。先生。でも、私も学生のときはそんなに成績よくなかったので、先生のようにえらそうには言うつもりないです」その瞬間、すべてお見通しだという顔をした担任が、べらべらと説明する口をとじた。このとき私は素晴らしくスカッとしたのだ。なかなか倒れない悪者を一撃できたような爽快感を、いまでも思い出す。

三者面談が終わって自宅まで帰る車のなかで、母は「あの先生あれもこれも全部あかんって、真桜のことを否定してばっかり。嫌な感じしたわ」そうか。わが子を否定されてばかりでは納得がいかないという、母親としての本能が働いたのかと私は感じた。それはよく聞く「無償の愛」という言葉を、じっくり内側からひとつひとつ解いていって、やっとその意味にたどり着いた瞬間だった。

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もし私がいま、「母親」として生きていたとすれば、わが子の味方で徹するような行動を本能的にしてしまうのかもしれない。それが母親としての最大の使命であり、子供の身体だけでなく心を支える基盤になっていくとすれば、やはり「母は強し」である。十七歳だった私が母親から教わった「無償の愛」は、一生忘れることなく、いつか私にとってのわが子にも受け継いでいくかもしれない。