「収縮期が110、拡張期が62。脈拍68でーす。健康ですねー。はーい、交代」
A子の声が、蒸し暑い実習室に間抜けに響く。私は腕をひっこめ、のろのろと立ち上がり、聴診器を受け取る。
汗っかきの私は、それだけで汗ばむ。ナース服が汗臭いけれど、今さら気にならない。
A子の腕をつかみ、上腕動脈を探る。いや、探る必要もない。何十回と繰り返した。目をつむったって分かる。
「あんたの血管、見飽きたわ」
「こっちのセリフよ」
顔を見合わせて笑った。何やってんだろうね、こんな真夏に。
A子の腕に、アナログの血圧計を付けた。笑ったらもっと暑くなった。

たかが血圧されど血圧。血圧が測れないと実習には行かせてもらえない

大学2年の夏、私は血圧測定の練習をしていた。
私は大学で看護を専攻していた。一学期、私たちは血圧測定を習い、実技テストを受けた。
これが案外難しい。患者役の学生の血圧を、制限時間内に正しい方法で測り、正しい数値を出さなくてはならない。
たかが血圧されど血圧。血圧を笑うものは血圧に泣く。血圧が測れないと実習には行かせません。血眼の教授が一対一で採点する。
血圧は、肘の内側にある上腕動脈という大きな血管から生じる音の発生と消失を利用して測る。この音を聞くのが難しい。最初になるドックンという音が収縮期の血圧になる。よくいう上の血圧。音が消えるのが拡張期の血圧。これは下の血圧。教授が測った血圧と、学生が測った血圧の差が4以内で正しい血圧とみなされる。

テストに落ちた私達は、夏休み中に何十回と自主練習した

一回目、受かる学生は10人に満たない。専攻人数の1割くらい。2回目は4分の1くらいが受かる。3回目にやっと半分の学生が受かる。4回目以降は夏休み明けの後期に持ち越し。夏休み中に自主練習を頑張ってください。看護実習室はずっと開けています。前期最後の日、教授は笑顔で言った。
私は3回目のテストに落ちた。一番仲の良いA子も落ちた。2人とも不器用で根は真面目だから、自主練習はたくさんした。落ちた子はみんな自主練習をしていたけれど、私たちは特にたくさんした。測る役、測られる役を交代しながら何十回と練習した。A子の腕のほくろの位置は、今でも覚えている。
総合大学の看護専攻だから、私には他の学部の友達もいる。
血圧とは無縁な農学部ちゃんに、血圧測定のテストが大変だと愚痴ったら、何それ簡単そうと笑われた。失礼な、血圧測定難しいんだよ。言い返すと農学部ちゃんはひまわりの笑顔で、私、学科でキャンプなのと言った。
あんたなんか、日に焼けて、焼けまくって消し炭になっちゃえ。農学部ちゃんは消し炭にはならなかった。消し炭じゃなくて恋する乙女になった。彼氏をつくって帰ってきたのだった。

血圧測定の練習に捧げた夏も、時間が経つとキラキラして見える

私とA子は、5回目のテストで受かった。もう、秋が始まろうとしていた。
やっと解放されたね。過ぎた夏を少しでも取り戻したいと、二人で大学帰りに焼き肉を食べた。夏メニューのかき氷は終わっていたけれど、楽しかった。
頑張ってよかったよ。私たちは達成感を噛み締めた。この夏の達成感はカルビの味だ。

この夏を思い出すのが私は好きだ。頑張った、と自信を持って感じられるから。血圧測定の練習なんて、夏らしくないしかっこ悪いと思っていた。
でも、時間がたって見てみるとちゃんとキラキラして見える。夏の太陽は、どんな努力にも輝きを与えてくれるのかもしれない。

秋が深まり、初めての病院実習に行った。病院の血圧計はデジタルの自動式だった。ボタンを3回押すと血圧が正確に測れた。
あの血圧測定テストって意味あったのかな。苦笑する看護学生たちに、物悲しい秋の風が吹きつけた。仕方がない。秋は悲しい季節なのだ。