ネガティブな私は、毎日自分はダメ人間なんじゃないかと思う
私がずっと捨てられないものは、ネガティブだ。
私は人の何倍もネガティブだ。子供の頃は明るかったが、いろいろと辛い目に遭い、ネガティブ人間になってしまった。
毎日自分はダメ人間なんじゃないかと思う。ネガティブだからそう思う気もするが、本当にダメ人間だからそう思う気もする。この時点で客観的に見れば、かなりネガティブかもしれない。
例えばラップの包み方だ。私は母にラップの包み方を注意される。
母はラップと包む物の隙間がなくぴっちり包める。しかし私が包むとどうしてもふわっと包まれて、物とラップが密着していない。母からは気がないからだと言われるが、どうあがいても密着して包めない。これに私のだめさ全てが反映されている気がする。
自分で考えて工夫できない頭の悪さ、それは今までの人生で「自分で考えて」と何回も言われたことと関係している気がする。さらに不器用さ、卵の白身がどうあがいても切れないこととも繋がっている気がする。ラップを包む度に、私は自分で考える頭のない無能で、家事がろくにできない役立たずだと思ってしまう。
ネガティブは人生が楽しくないし、周りの人も暗い気分にさせてしまう
私は先へ先へと不安がむくむく湧いてきてしまう。祖母の葬式で特にそうだった。
私は祖母の葬式で、気を利かせて動くことができなかった。そんな中、父が喪主を務め、母が親戚たちに流暢にあいさつ、お茶出しをしているのを見て、私は父と母が亡くなった時、葬式を円滑に行えるか不安になった。香典の作法も分からず、親戚たちから後ろ指を指されるのではないかと憂鬱になった。
私には兄がいるが、兄だって必ず生きているとは限らない。さらに子供の姿を見ると、子供ができたら自分は子供を事故で死なせてしまったり、進級の手続きや受験の手続きを誤って進級や受験ができなくなってしまうのではないかと不安になる。子供に関してはさらに、子供がいじめに遭ったりいじめをしたりした時に、放置してしまうのではないかと不安になる。だから私はよく、いもしない子供のことで憂鬱になる。
やはりネガティブは一般的に見てもない方がいいかもしれない。人生が楽しくないし、周りの人も暗い気分にさせてしまう。
私は実際、心身のバランスを崩した。その時はとても辛かった。ただ生きているということがこんなに辛くて地獄のようなのはなぜだろうと思った。明るい人の気持ちも分からず、明るい人とあまり仲良くなれない。家族や友達にも、いつも不安だとかダメ人間だとか嘆いて迷惑をかけた。
ネガティブだからこそ、世の中に役に立つことはたくさんあるはず
ただ、ネガティブもそんなに悪いことではないかもしれないとも思う。
誰でも暗い気持ちにはなる。そんな時に私はその人に寄り添うことができる。だからこそ繋がっている絆もあるのではないかと思う。
ネガティブだから感動できた音楽や文学もある。私はあるバンドがとても好きで、そのバンドの歌詞の内容は全てがめんどくさいとか消えてしまいたいとか殺したいなどだ。それを聞くと私は生きていると実感する。
ある時出会ったカフカの暗い名言では、己の無能さが強く表現されていた。そうだよなそうだよなと思った。こういう種類のカタルシスはポジティブだったら感じなかったかもしれない。
ネガティブだからこそ世の中に役に立つことはたくさんあるはずだ。光があれば影もあり、太陽があれば月もあるように、ネガティブだけはよくないが、ポジティブだけもよくない。両方必要なのだ。
最近はやたらメンヘラだとか人を非難する風潮がある。気持ちも分かるがネガティブを悪にするのが正義かというとそれも違う気がする。メンヘラという言葉のせいで病んでしまう人もいるのではないだろうか。
それにしても、メンヘラの対義語で非難する言葉はなぜないのだろう。ネガティブはこの世に必ず必要なはずだ。
だから私は今より少しネガティブを減らそうかと思うが、ネガティブも私の個性なので完全に捨てきる気はさらさらない。