何に対しても、安心感を求めてしまう。
それが悪い事だとは思っていない。
学生の頃は、目の前のやりたい事に対して、素直に、貪欲に飛び込んでいた。
しかし、社会に出るという人生の大きな節目を迎えたわたしは、自然と、何のために働きたいか、という考え方をするようになっていた。
わたしにとってのそれは、生活を充実させる事だった。
趣味や友達との時間、自分へのご褒美などを自分で稼いだお金で楽しむ事が働く理由だった。
それが害されなければ、仕事はなんでもよかった。
だからわたしは、迷う事なく地元で安定した企業に就職をした。
働き始めてしばらくは、うまくバランスを取って生活できていた。少々の不満はあったが、その分、生活は楽しく、満足できるものだった。
しかし、部署異動を機にそのバランスが崩れ、働く意味を見失ってしまった。
家庭のある人は家族との時間がほぼなく、家に帰っても小さな子供は寝ていてコミュニケーションが取れなかったり、誕生日すら一緒に祝えないでいたり。独身の人は、家庭のある人の分まで働き、会議や係を複数受け持ち、夜遅くまで働いていた。職場のゴミ箱は、常にエナジードリンクの空き缶でいっぱいだった。
自分自身も定時で上がる日はほとんどなく、深刻な人員不足もあり、1人の仕事量とは思えないほど、毎日、自分が阿修羅像に見えるくらい働いていた。令和の時代に、帰宅時間が0時を越えていた日もあった。
上に訴えても改善されず、これから先もこんな環境で働き続けることは、とてもじゃないが出来ない。そう思ったわたしは、退職という選択をした。
夢見た起業にストップをかけたのは現実的な思考
仕事を辞めたわたしは、せっかく辞めたのだから、いっその事、やりたい事を仕事にしてみようかと考え始めた。
真っ先に頭に浮かんだのは、キッチンカー営業だった。
具体的なコンセプトやメニューなど考えている時間はとても楽しかったし、応援してくれる人達もいて、恵まれた環境にいる事を知り、運が味方し、やれと言われているような気分になっていた。
しかし、時間が経つにつれ、現実的な思考がわたしの心にストップをかけた。
本当に自分がやりたいのか、応援してくれる人達に応えたいだけなのかがわからなくなっていた。
自分で起業するという事は、金銭面でも精神面でも、とりあえずやってみよう、の範疇を超えている。
人生において、失敗から学ぶ事は沢山あると思うが、今年で27歳、将来への不安が拭えず、足踏みしてしまう。
もちろん、退職の選択は後悔していないが、やはり安定から逸れてしまった事は事実で、周りは結婚、妊娠、出産を経て、家まで建てている。今すぐそうなりたいわけではないが、今の自分には何もないという現実を突きつけられている気がして、そこからくる焦燥感がそうさせるのだろう。
原点にかえり、わたしが人生に求めるものは安心感のある生活
原点にかえり、将来どうなりたいか、考えてみた。
結婚はしたい、出来るなら子供も欲しい。子供にも素直にやりたい事をやってみて欲しい。自分の趣味も続けたい。それを叶えるにはある程度の蓄えが必要。
ここで気付いた。やはりわたしは何をして稼ぐかではなく、何のために働くかが大事なんだと。
前職の仕事自体は嫌いじゃなかったし、利用してくれる方々との関わりが励みになって、やり甲斐もあった。わたしには組織の中でこそ活かされる協調性やホスピタリティがあると思う。将来を考えた事で、今回は社会の歯車に巻かれてしまったが、自分に合った働き方ができる場所もあるんじゃないかと思えた。
夢の実現までの過程が厳しく、苦しいものであればあるほど美学とされる風潮があり、組織の中でひたむきに働く事がつまらない人生と捉える人すらいる。もちろん、夢を持つ事は素敵な事だし、明確な目標があって、厳しい環境の中で戦う事も素晴らしい生き方だと思う。
堅い考えと言われてしまえばそれまでだが、わたしにとっての目標は、安心感のある生活だ。
仕事に追われ、切羽詰まって、人に優しく出来なくなるよりも、安定した生活の中のゆとりを楽しみたい。ゆっくり呼吸をして、そこにある小さな喜びを感じて、笑っていられる時間を大切にしたい。
夢という輝かしい言葉は、大人になると重荷や足枷となることもある。それを感じてしまった時こそ、自分なりの幸せを見つめ直したい。生き急ぐ必要はないし、自分自身に水をやる時間を十分に取ってあげないと、人間だって枯れてしまう。
わたしはこの先もきっと安心感を求めて生きていくだろう。
それを捨てられなくてよい、捨てなくたってよい、そう思っている間は。