最後に故郷に帰ったのはいつのことだっただろう。例の流行り病のせいもあり、少なくとももう5年は帰っていない。
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こんなにも長い期間、故郷を離れるのは初めてだ。
私の地元は田舎で、新型コロナウィルスが流行し始めてしばらくは東京からの客人を嫌がる風潮があった。だが最近は慣れて緩んできたのか、ぼつぼつと帰省客も増えているらしい。
なのでついこの間、今年のお正月は帰省の絶好のチャンスではあったのだが、友人の間に体調不良者が数名いたことを理由に結局断ってしまった。
正直、今は帰るのが少し怖い。期間が空いてしまったことで、時の流れを目の当たりにするのが怖い。
祖父母の白髪が増えてはいないだろうか、身体は悪くなっていないだろうか、ご近所の人は変わりないだろうか、見慣れた景色や馴染みの店が変わってはいないだろうか。
何日か学校や会社を休んでしまった次の日に行きづらくなるように、遠ざかれば遠ざかるほどハードルが高くなるのを感じている。
いっそ結婚や就職など何かおめでたい話があればそれを手土産にできるのに、と自分の弱さを奮わない日常のせいにしたりして、グダグダと帰らない理屈をこね続けて現在に至る。
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今まで、故郷は実際に住んでいる街だった。そこで呼吸をし、成長を共にし、日々生活していた。
ただ、引っ越して距離ができたことで故郷は思い出の地になった。そして額縁に入れて大切に飾ってある1枚の写真のように、固定化され美化されたものになりつつある。
私はきっと、飾られた写真のようにいつでも帰ればその写真のまま、元気な祖父母が居て、駐車場の方が広い平屋の路面店がぽつぽつあって、地域密着型のお惣菜が豊富なスーパーで買い物をしたいと望んでいる。美しい思い出は美しい思い出のまま自分の中に留めておきたい。だから時の流れが怖いのだろう。
私の身勝手な願いとは裏腹に、故郷は変わっていく。近くに大きなショッピングセンターができたそうだ。それによって私の愛した路面店が減りつつある。その場でパンを焼いてくれる大好きな地域密着型のスーパーも、全国チェーンのスーパーやコンビニの進出により押され、以前ほどの活気はないという。
自転車に乗ってどこまでも行ってしまう健脚自慢の祖母も、定年を過ぎても元気が有り余っていた祖父も、当たり前だが年をとっていく。
以前より健脚が衰えた祖母は、ショッピングセンターに店がまとまったことで買い物が楽になったと言っていた。近くにできたコンビニもスーパーより手軽で便利としばしば利用しているようだ。
私も自分が住んでいた当時なら、こうして同じように発展による利便性を享受しただろう。実際に私が住んでいた当時にも街は発展し、それを受け入れて育ってきた。
それなのに今の私がその変化を受け入れられないのは、自分の持つ額縁の中の写真と違うからに過ぎない。
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今の故郷は、生まれた街であることには変わりはないし、愛着のある土地であることは確かだ。だがもうそこは厳密に言えば既に私の故郷ではない。
故郷とは、実際の土地と記憶が複雑に結びついた、それぞれの頭の中にある理想郷なのかもしれない。