数年前に亡くなった伯父には離婚歴があったらしい。
今年の正月に実家に帰った際、何の話の流れだったか、父がさらりとそれを口にした。今まで一度も聞いたことのない話だったから、「えっ」と反射的に驚いてしまった。
でも「知らなかったとしてもおかしくはないか」とすぐに思い直す。伯父と最後に会ったのはおそらく中学生の頃で、その時にはもう再婚相手である伯母がいた。子どもの私にとってはふたりが夫婦であることがすべてで、夫婦になる以前の経緯に考えが及ぶことはまずなかった。それに、かつては家族だったけれどすでに別れたひとのことは、確かにわざわざ親戚の集まりの場で話すような話題ではないかもしれない。
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でも私は、父の話を受けて自然と呟いてしまった。心の中で、「伯父さん、バツイチだったんだ」と。
同時に、ふと疑問が生まれた。離婚歴がある人のことを、なぜ「バツイチ」と呼ぶのだろう。離婚回数に応じて、「バツニ」「バツサン」とその数字は増えていく。
「バツ」の由来は諸説あるらしいが、昔の戸籍謄本に起因する説が最もメジャーなのだそうだ。コンピュータ化される前の、手書きだった頃の話だ。戸籍の筆頭者は通常男性側で、夫婦が離婚すると女性側は除籍されることになる。この際、女性の名前には大きく「×」の印がつけられたらしい。除籍による「×」が、「バツイチ」の由来と言われているようだった。
ふいに気になったことがきっかけで由来を調べてはみたが、伯父の話を聞くまでは特に引っかかりを覚えたことがなかった。空が青いのと同じように、信号が赤になったら止まるのと同じように、離婚歴がある人をバツイチと呼ぶのも「そういうものだから」といった捉え方だった。数ある「当たり前」の中のひとつだった。
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とはいえ、由来を知ってもなお、私は少し考え込んでしまった。れっきとした由来があったとしても、呼称の中に「バツ」というワードが入っているのは、改めて意識するとあまり良くない気がする。そのワードの響きやイメージのせいか、印象が悪くなりがちだ。確実に「悪いもの」「マイナスなもの」「忌むべきもの」などに対して用いるのならば違和感はないのかもしれないが、離婚は何も厭うようなことではない。
将来を共に歩むことを一度は誓い合った相手と別れてしまうのは、哀しく、つらいことなのかもしれない。
でも、結婚同様、離婚だって人生の選択肢のうちのひとつだ。離婚の理由は夫婦によってさまざまだとは思うが、そこですべてが終わるわけじゃない。互いから離れた後も、人生は続いていく。
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離婚自体、珍しいことでもないと思う。小学生時代の親友Tちゃんは、彼女が低学年の頃にお母さんがシングルマザーになっていたし、他にも両親が離婚している同級生は昔から決して少なくはなかった。長年別居していた自分の両親に関しても、役所に届けを出さなかっただけであって、離婚とニアリーイコールな状態だった。
だからこそ、離婚にそこまでイレギュラーなイメージは抱かない。たとえ両親が正式な手続きを取って戸籍上も夫婦ではなくなった世界線があったとしても、ひとつの選択として静かに受け入れられていたと思う。
離婚に関連した俗語だと、「こぶつき」も表現的にどうなのかなとつい先日首を傾げたばかりだ。
夫と、とあるドラマを家で観ていたときのことだ。主人公は父親の反対を押し切って結婚しようとしており、相手は10歳年上の子持ち男性という設定だった。子どもがいたことが明かされるシーンを観た夫は、「こぶつきかあ」と何気なく口にした。
子どもの有無によって、生活環境は確かに大きく左右されると思う。しかし、だからといって子どもの存在を「こぶ」という含みを持たせた言葉でたとえるのはいかがなものだろうか。子どもに間違いなく罪はないし、人の命はみな等しく尊ばれるべきもののはずだ。
もしかしたら普段見過ごしてしまっているだけで、離婚にまつわる「おや?」な俗的表現は他にもまだまだあるのかもしれない。
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私たち夫婦だって今でこそ円満かもしれないが、この先長く続いていくであろう人生の中で、何が起こるかはわからない。未来のことは、誰にもわからない。不満があるとかないとか、不穏な気配があるとかないとか、そういう話ではなく。あくまで可能性の話。
(…と、念押ししておかないと「離婚ってなに、どういうこと」と夫に詰問されてしまいそうだから。もちろんいまの私はあなたに一生添い遂げるつもりだよ、ということは認識しておいてほしい)
でも、離婚を選ばざるを得ない未来が仮に訪れてしまったとしても、ふたりで決めたことなら互いにその選択を尊重し合いたい。分かれ道の先にはまた、それぞれが歩いていく道がある。たとえさみしくなったとしても、「じゃあね」と悔いなく手を振って、地に足つけて新しい道を歩いていけるようなひとでありたい。
だからこそ、離婚に対する世間のマイナスイメージがもう少し払拭されたらいいのになと思う。
そして、「おや?」な俗的表現を始めとした、世の中に散見される“当たり前”にも、私自身もっと目を向けていきたいと改めて感じた。