私はもうすぐ30歳になりますが、いつも何かに悩み、うまくできたとしてもどこか不安で心細くなることの方が多かったなと思います。人と比べて、自分のできないことを見つけては、自分のことが嫌になり、自分の好きなところを見つけることができませんでした。

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人と違うことで疎外されることを恐れ、常におびえながら過ごしていた中学生。近くでひそひそと笑い声が聞こえるだけで、自分のことを馬鹿にされているのではないかと、うつむきながら過ごしました。

生き生きと部活動や勉強に励み、恋愛も充実しているクラスメイト達がうらやましくて、自分にはそんなことができない、自分だけちっぽけな価値のない人間だと、卑下していた高校生。

大学からは新しい自分になれると確信し、精いっぱい周りに合わせ、キラキラした友達と遊んで、充実していると感じるのも束の間、一人暮らしのアパートに帰ると、どっと疲れて虚無感に浸っていた大学生。

小学校教員になり、日々がむしゃらに仕事をこなして疲れ果て、土日は起き上がることもできないほどぐったり。月曜日がくるのが恐ろしくて、頭痛で起き上がれず、休もうか…どうしようか…と考えているうちに、“ちょっとくらい体調が悪くても、学校や仕事にいくのが当たり前”な母親に促され、全身だるい体を無理やり起こし、死にそうな顔で出勤しました。仮に休んだとして、母から向けられる軽蔑した目を想像すると、それこそ恐ろしくて休むことなどできませんでした。

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家族は決して私のことを軽蔑しているなどとは思っていません。けれど、彼らから発せられるささいな言葉が、私の心にはささくれのようにチクチクと刺さりました。家族から否定され、軽蔑されるだけのちっぽけな人間なのだと思うと、心にぽっかり穴が開き、自分の居場所などどこにもないという悲壮感に襲われました。

とうとう2年目でうつ病になり、身も心もぼろぼろになりました。生きることも、自分のことも、とことん嫌になりました。なぜここまで生きづらさを感じるのか、いくら考えてもわからず、もどかしい毎日でした。

「うつ病なんて心が弱いからなるんだ、考えすぎるからだめなんだ」と、テレビでうつ病を公表した人に向けられた言葉を、私は身をこわばらせて聞きました。とても、家族にうつ病の相談などできませんでした。自分の心を偽り、平気なふりをするしか、この家族という名の小さな社会で生きていく術はありませんでした。

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生きづらさを感じる世の中で、唯一救いだと思うのは、教職という仕事は毎年人事異動があり、同僚が入れ替わるということ、それからネットでいろいろな考え方を知れることです。
性格診断をしたり、うつ病になりやすい人の特徴や、メンタルを強くするためのメソッドなどを調べたり、いろいろな情報を得ました。

そうして、直接もしくは間接的に、いろいろな経験を積む中で気づいたことがあります。人々の顔が一人一人違うように、考え方も人それぞれだということ。一つの正解にこだわろうとすると、考えがぶつかり合い、だれかを否定しなければならなくなるということ。多数派と違う人や考えは、少数派というだけで疎外され、否定されてしまうこと。それは、家庭でも学校でも社会でも、いろいろなところで感じることでした。

なぜ一つの正解にこだわらなければならないのか。そもそも正解などあるのか。算数でさえ、多様な考えを導こうという考え方になっているのに。

一つの考えに絞らなければならない場面だったとしても、「今回は、この考え方にしよう」「いろいろな考えがあって当たり前だから、違う考えを否定するわけではないよ」そうして、多様な考えを認め、誰の考えも否定する必要がないのだと気づいた時、自分自身の考え方も「これでいいんだ」と思えるようになりました。

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“ちょっとくらい体調が悪くても、学校や仕事に行くのが当たり前”だと信じて生きてきた母の考えを否定しなくていいんだ、母はそういう考えなのであって、自分は違う考えを持っているというだけのことなんだ。

そう思えたとき、今まで“常識”でがんじがらめに縛られ、カチカチに硬くなった心が、ふわっと軽く、柔らかくなるのを感じました。

多様性を認める社会になりつつあるといっても、多くの人は、“常識”という“多数派の中の一つの考え”に傾倒したり、自分とは違う考えをすぐさま否定したり、そういう自分に気づかないまま、相手を傷つけている。そんなことが往々としてあるのではないかと思います。「ゲイの人、最近よく見かけるよね。」テレビを見てそう言い、多様性に理解がありそうな人でも、自分のすぐ近くに、例えば家族に、ゲイの人がいるとはちっとも考えていないように。

なぜ、人々は固定した考えに物事をはめ込んで、カテゴライズしようとするのか。きっと自分を否定されないために、自分を守るために、自然としていることなのだと思います。でも、同時に、否定される人がいるという事実に気づかなければなりません。

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“答えは一つじゃない。誰も、誰の考えも否定しなくていい。”それが29年間、生きづらさを感じながら生きてきた私の答えです。

自分と違う人や考え方と対峙しても、何も不安になる必要はない。ただ、違うという事実があるだけ。まずは、にこっと微笑んで「こんにちは」とあいさつをしたい。もしかしたら、相手も自分を否定されるのではないか、不安になっているかもしれないから。そうして、「あなたは、どう思う?」と聞いてみたい。

もし、自分と違う考えだったら、とてもラッキー。だって、違う考えを知れば知るほど、柔軟な考えをもつことができるから。そう気づけたのは、まぎれもなく、今までの人生があったから。迷い、苦しみ、悩んだ29年間があるから、今がある。そう確信しています。