子供ができたかもしれない。
それがわかったのは結婚から4カ月、新婚旅行帰りにコロナに倒れたタイミングだった。
転職直後の妊娠。育児休暇は入社から1年経つまで取得できない。下手をしたら解雇されるかもしれない。不安で、私は大いに荒れた。
それはもう、結婚前から子供を望んでいた夫に、1番言わせたくないことを言わせてしまうくらいに。

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子供を産みたいか、産みたくないか。

率直にいうと、私は「どちらかというと産みたくない」人だった。
まず、出産がとにかく怖い。「鼻の穴からスイカを出す」とはよく聞く喩えだが、どう考えても物理的に無理がある。
次に、自分にはやりたいことが多すぎる。仕事はバリバリやりたいし、一度しかない人生、趣味も存分に満喫したい。とはいえ、自分は世話好きだ。子供ができたら自分のやりたいこと、やるべきことが後回しになる。そう感じていた。
3つ目に、現代の社会情勢に希望を持てない。
行き過ぎた資本主義による、ごく一部の人だけが得をするような社会構造。政治は腐敗しきっていて、正直、今後世界が良い方向に向かうとは、到底思えない。
これから生まれる世代は、どれほど苦労することになるのだろうか。

そして最後に、というよりもこれが最大の理由だが、私はPCOS(多嚢胞性卵巣症候群)だ。おそらく、苦しいと聞く不妊治療なしでは子供は望めない。ならば、最初から望まない方が気が楽だ。まぁでも、夫が望むなら、いつかチャレンジしてみても良いのかな。
そんなことを考えている人間だったので、母親になる覚悟なぞ何もない。
妊娠に伴うホルモンバランスの乱れか、高熱による不調か、私のメンタルはボロボロになった。どうすれば良いかわからず、実母にすら連絡できない。コロナに罹患しているため、夫ともろくに話せず、ネットで色々と調べては不安で泣くばかり。好き同士結婚したのに、いつかは子供ができることだって想定していたはずなのに、どうしてこうなってしまったのだろう。

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幸い、コロナの症状は1週間程度で治まった。
それでも私の気持ちは暗く、夫にはできる限り見せまいとしていたが、涙が止まらない日々が続いた。

そんなある日。起き上がって一緒に夕食を取れるようになった私に、思い詰めた顔をして夫は言った。

「お母さんになる人がそんなに苦しんでいるのなら、いっそのことさよならした方が良いんじゃないか」と。

言われた瞬間、頭が真っ白になった。
その選択肢を全く思いつかなかったと言えば、嘘になる。自分でその決断をせずとも、自然に……などと、ひどいことも考えた。だから、私から言うならまだわかる。

でも、「できればいつか子供が欲しい」と言っていた夫にだけは、絶対に言わせてはいけない言葉だった。

やってしまった。もうおしまいだ。
誰よりも私を想ってくれる優しい人に、1番苦しい台詞を言わせてしまった。
何を言えば良いのかわからず、唇を噛み締めて涙を堪える。でも、それを口にした夫の方が、私よりもずっと、痛くて苦しいに違いないのだ。

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それから5カ月が経った。妊娠8カ月を迎えた私の腹部は大きく膨らみ、毎日「中の人」に元気よく蹴飛ばされている。
あの日の夫の提案に、私は頷かなかった。でもそれは、既にヒトとして宿った命を蔑ろにできないとか、そういう高尚な気持ち故ではない。
自分では全く望んでいない提案をするほど優しい夫は、もしこの命を手放す決断をしたら、生涯自責の念に駆られるに違いない。いつか、互いの顔を見るのも辛くなって、別れを選ぶことになるかもしれない。それは、私にはとても耐えられない選択だった。

私はただ、大好きな夫とこれからも一緒にいたかっただけなのだ。
結局私には、最初から「産む」以外の選択肢はなかったのだ。

ただのエゴなのかもしれない。それでも、この子を「産む」と決めたのは私だ。

腹を括り、毎日少しずつ、色々なことを話した。仕事のこと、今後の生活のこと、まるで何もわからない妊娠・出産のこと……。話し合いを重ね、知らないことは2人で一緒に勉強することで、一つずつ、漠然とした不安を解消していった。

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そうして初期の不安とつわりを乗り越え、安定期には2人の思い出をたくさん作り、穏やかで幸福な日々を取り戻したある夜のこと。ソファに並んで座り、他愛もない話をしながら私の腹部を撫でていた夫の手の下で、「中の人」が大きくポコンと動いた。

「……今、動いた?」
「うん、動いたよ」

そう答えると、夫の目はみるみるうちにうるみ、涙がこぼれ落ちそうになった。

胸がいっぱいになった。2人の間にできた命を感じ、こんなにも喜んでいる人が、私の伴侶なのだ。「え、もしかして泣きそうになってる?」と茶化しながら、私も込み上げてくるものを堪える。

一生に一度しかないかもしれない「子供ができたかも」という瞬間に、喜ばせてあげられなくてごめんなさい。考えたくもなかっただろう選択肢を、口にまで出させてしまって、本当にごめんなさい。
こんなにひどいパートナーなのに、苦しい期間もずっとそばにいてくれて、これからもずっとそばにいる選択をしてくれて、本当にありがとう。
……そして、まだ見ぬ赤ちゃんへ。
私たちのところに来てくれて、本当にありがとう。
言葉にならない後悔と感謝を飲み込み、夫に抱きついた。すぐに手を回し、ぎゅっと抱きしめてくれる。

まだ、出産や産後について、不安なことは多い。考え過ぎて、眠れなくなる夜もある。
それでも、あなたとならばきっと、「母親」になれる。一気には難しいけれど、2人一緒に少しずつなら「親」になれると思うのだ。
だから、この涙のことは生涯忘れない。これからもずっとずっとよろしく。
そんな気持ちを込めて、さらに強く、最愛の人を抱きしめ返した。