今でもカーディーラーの前を通ると、スーツ姿の営業マンが目に入って胸がちくっと痛くなる。
今はもう結婚して子どももいる私。もうずっと昔の話。

大学に入って初めてできた彼は車の営業マンだった。友達がセッティングしてくれた食事会、少し遅れてやって来た男性たちは「仕事終わりにそのまま来た」らしく皆スーツ姿だった。はす向かいに座った6才年上だというその人は、高校を卒業したばかりの自分には知らない世界を知っている大人に見えた。
その日は連絡先を聞かれて、毎日たわいもないやり取りをするようになった。遊びに行くときは2人だけのこともあれば友達と一緒のこともあったが、いつも優しく周りのことも考える彼に少しずつ惹かれていった。

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しばらくして、その彼から告白されて付き合うことになった。
彼は車の営業マンだけあって、乗っている黒い車は外も車内もホコリひとつないくらいに掃除されていた。私は車のことは全くわからなかったけれど「いつも車ぴかぴかだね」とほめると「この車ね、先輩にいつも、黒光りしてる姿とフォルムがゴキブリみたいって言われるよ。ひどくない?」と笑わせた。
彼とその車に乗って海に行ったりお祭りに行ったり、初めての経験をたくさんもらった。

彼はまめで優しすぎるくらい優しくて、たまに将来(結婚)のことも話すようになっていた。
彼の学生時代の先輩夫婦や、恩師の家に一緒に連れて行って紹介してくれたりもした。あと何年か営業をしたら、家の仕事を継ぐために実家に戻りたいとも言っていた。けれど、まだ20歳そこそこだった私にはそれがだんだん重荷になっていった。

大学に通いながらアルバイトをしたり、夜遊びもするなかで少しずつ彼とすれ違っていった。その頃の自分は、若さと目の前に広がる未来の前で完全に浮き足立っていた。
私は、彼との別れを考え始めていた。
別れが迫っていた冬の日、「〇〇が何考えてるかわからない」と寂しそうな顔で彼が言った。
自分が別れを切り出したとき、彼も何となく予想していたのか、涙を流しながら
「……分かった」と呟いた。
彼と別れ大学を卒業するまで何人かと付き合ったが、彼ほど自分のことを考えてくれた人はいなかった。

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大学を卒業したあと、私は仕事に通うためアパートから実家へと戻った。山と田んぼに囲まれた、のどかだけど何もない町。学生時代とは全く違う生活リズムになった。
今結婚している人と付き合い始めたのもその頃だった。風が冷たくなってきた10月、私は付き合い始めた彼への誕生日プレゼントを買うために市内の繁華街に車で出かけた。

久しぶりの市内の運転に緊張していると、横を走っている車が何度もクラクションを鳴らしてくる。自分のヘタクソな運転に怒っているのかとビクビクしながら横を見ると、なんと別れた彼があの黒い車に乗って笑顔で手を振っていた。
手まねきして親指を立てて、ジェスチャーで「付いてきて」と言っている。
少し迷ったけれど、私は彼の車の後ろへと車線変更して付いていった。

少し先のショッピングモールの立体駐車場に入った彼に付いて、となりに車を停めた。
彼はあの頃と同じように優しく「となり乗って?話しよう」と言った。
久しぶりに乗った黒い車の助手席はなつかしい甘い香りがして、相変わらずぴかぴかに掃除がしてあった。
あの頃に戻ったみたいに、しばらくたわいもない話で盛り上がったあと「今彼氏いるの?俺は全然だめ」と自虐的に彼は笑った。
「いるよ。今日誕生日プレゼント買いに来た」と私は事実を伝えた。
しばらく続いた沈黙のあと「いま、幸せ?」と彼は聞いた。
私は「うん」とひとことだけ言った。
「なら良かった。安心した」と彼はいつものように優しく言って、「じゃあ、元気でね」
と笑顔で別れた。

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実家へと戻る車のなかで、なんだか理由のよく分からない涙がでた。

今家庭を持って、楽しい日もあればすごく落ち込んでしまう日もあるけれど、あの恋は自分を形作っている一部分になって私を支えてくれている。
連絡先も消してしまったし、遠い街に引っ越した私が彼と会うことはもうない。

ひとりで車を走らせながら、今も元気かな?とふと考えるとき、胸の奥に小さな灯がともる気がする。

私に愛をくれてありがとう。