30年前。母はわたしが高校1年生のとき、家を出た。正確に言うと、その数か月前から家に帰ることが減ってきて、最後の日を「最後」とわからないまま、とうとう帰ってこなかった。

わたしには弟と妹がいる。高1のわたしには、父と母の関係が崩壊していることはわかっていた。

夜勤がある仕事を理由に母が帰ってこない夜があるのを、「仕事だから」と言葉に出さずに飲みこんでいた。その裏で「お母さんはわたし達を置いて出ていくかも」という不安が常にあった。

それが現実になったことを覚悟したのは、何日目の夜だったのだろう。 

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母の居場所も連絡先もわからず、携帯電話もない時代。母を罵る祖父母と、最初から諦めていた父。家の中は暗く、沈んでいた。わたしは自分より幼い弟や妹のことを気遣うこともせず、家と学校の往復の生活の中で自分を「変わらず」守ることしかしなかった。

母は、辛かったのだ。孤独だった。

当時の母の年齢を越した今のわたしがもしその時母の隣にいたら、迷うことなく言える。
「もう家を出ていいよ―」
だが、わたしが母に放った言葉は、残酷な追い打ち攻撃だった。
「嘘をつくのってそんなに楽しい?」
冷ややかに、責めた。ただ、帰ってきてほしかっただけなのに。

どんなに後悔しても、取り消すことができない。忘れることができない。わたしはまだ親に甘えたい年齢だった。それでも、ひとりぽっちの母の味方になるくらいの力はあったはずだと、今のわたしが弾劾する。

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母が家を出て数か月たったある日、電報が届いた。見覚えのある字。差出人は母。
「16歳のお誕生日おめでとう」
その日はわたしの誕生日。花束を模した電報を開くと、『Happy birthday』のメロディーが流れた。

飲みこみ続けた寂しさが喉の奥を突き上げ、寂しさが涙に、声になって体中からあふれ出た。

その後しばらくたって母と連絡が取れるようになり、父や祖父母には内緒で時折わたし達を遊びに連れ出してくれるようになった。待ち合わせはいつも家から少し離れた場所だった。母の車を見つけた瞬間の嬉しさ。わたし達との「約束」が最小限でも守られていることの安心感。

わずかでもこの時間があったから、母を恨む気持ちが消化され、自分の足で未来へ向かうことができたのかもしれない。 

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それから10年。母がわたしを産んだ同じ年齢で、わたしは娘を産んだ。母の元に里帰りし、初めての出産をした。産前産後の数週間の母がいる生活を味わい―それは本当に「味わう」ものだった―、その後今に至るまで世間一般の里帰りを毎年している。

子どもと離れることを選んだ母の気持ちは、正直いまだにわからない。自分が子どもをもってみても、なおさらわからない。ただ、わたし達より大事なことがあったわけでも、愛されていなかったわけでもないことは、毎年の里帰りで母とぎこちなく過ごすうちにわかってきた。

何も持たずに家を出た母が、数枚の幼いわたし達の写真を大事に持っていたこと、孫達を可愛がりいつでも歓迎してくれたこと、わたしが流産したときすぐに駆けつけてくれたこと、どれをとっても子どもを思う母親だ。

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あの時。母がく孤独だった時間は、どれくらいだったのだろう。母が家を出た直後、我が家の異変を感じ取ったある大人が、わたし達を不憫に思ってか、こう言った。
「誰かの犠牲の上に成り立つ幸せなんてない―」
わたし達は犠牲になったのだろうか。母の幸せのために? 

絶望的な困難を感じたとき、それを解消する道があるならその道を進めばいい。家族なら無条件にそう願う。子どもだったわたしにはそれができなかった。母がたとえ不幸でも一緒にいてほしいと願ったわたしこそ、母を犠牲にしていた。でもそんな自分も「かったよね」と今は受けとめている。

30年前、高1だったわたしは母が帰ってこない夜、いつも布団の中で神様と仏様に祈っていた。「家族みんなで仲良く暮らせますように」呪文のように何度も何度も。
今わたし達3人はそれぞれ家族をもち、それぞれ気ままに暮らす両親の様子を今日も思う。親子が同じ家で暮らせる時間は短い。その短い時間では、「みんなで仲良く」が間に合わなかった。たったそれだけのことだ。家を出た母が、わたし達との時間を諦めなかったことがすべてだ。
わたしには今、困難は何もない。母の残りの人生をめいっぱい愛したいと思う。