世の中、むかつくことはたくさんある。
急いでいて、おじさんの前を横切ったら、「人の前を通るな!」と怒鳴られてぶつかられたこと。
少し気が緩んで、歩きスマホをしていたら、前から歩いてきたおじさんに「この馬鹿!スマホ見てんじゃねえ!」と暴言を吐かれたこと。
学園祭でコーヒーを出していたら、知らないおじさんにつかまって延々と知識を披露されたこと。
昔のバイト先の店長に、掃除機の使い方で苦戦していたら、「そんなんじゃ社会人になったときに先輩のお局に馬鹿にされるよ」と笑われたこと。

おじさんたちに聞きたい。「私が男でも同じことしましたか?」

これらの出来事が起きたとき、私は謝ったり、愛想笑いをしたりしてその場をやり過ごした。嵐が去ったあと、心の奥底からふつふつと湧いてくる怒りと、ただ曖昧にやり過ごしてしまったことへの悔しさを持て余すのが常だった。
もちろん、ギリギリで人の前を横切ったり、歩きスマホをしていたり、掃除機一つ満足に使えなかったり、私にだって非はある。それでも。
おじさんたちに聞きたい。「これ、私が男でも同じことしましたか?」って。

私が若い男だったら、おじさんはぶつかってきただろうか。暴言を吐いただろうか。30分も捕まえて、ご自慢の知識を披露しただろうか。掃除機が使えないことで、私の将来を茶化しただろうか。多分、しなかったと思う。

だって、男友達や彼氏や父親と歩いているときに、こんな思いをしたことはないもん。「おじさん」に変な絡まれ方をするのは、1人のときか同年代の女友達といるときだ。そして、私がこれらのエピソードを怒りを交えて話すとき、「わかる!」と頷いてくれるのは、大体女の子なのだ。

私たちが若くて、女で、反撃してこなさそうだから、きっと自分より無知だから、未熟だから、そう思ったから、彼らは不快なコミュニケーションをしてきたのだと思う。

「若い女」なんていう、見た目だけでのラベリングには収まらない

確かに私は無知だし、人生経験も浅いし、女だし、失敗もするし、迷惑をかけてしまうこともある。でも、私はそれだけじゃない。私には名前があって、小さい頃から家族にたくさん可愛がられてきて、剣道を一生懸命続けてきて、受験勉強も頑張って第一志望の大学に入れて、今は倫理学を学んでいて、大好きな友だちや恋人もいて、ピンクが好きで、料理はちょっと下手で、だるまを集めるのが趣味で…。「若い女」なんていう、見た目だけでのラベリングには収まりきらないくらい、「私」という人間はいろんな要素がぎちぎちに詰まっているのだ。

それを彼らはきっとわかっていなかった。「若い女」とラベリングされたカゴの中に、親しくもない私を雑に放り込んで、自分の苛立ちや自尊心をぶつけてストレス発散したのだ。もしラベルの奥の「私」をもう少し想像できていたら、彼らはあんな失礼な関わり方をしなかったのではないだろうか。

私は、勝手に私をラベリングしてくる全ての人にNOと言う。私は若い女とか女子大生とか、そんな枠だけに収まらない。ましてや、身勝手なラベリングに基づいて私に失礼な態度を取ることは絶対に許容しない。目に見える情報の後ろに、どんな人間が隠れているのか、それを想像しないのは怠慢だ。

私だってラベリングしている。その背後を想像しないといけない。

と、ここまで力強く言い切ったあと、その言葉はまっすぐ私に返ってくる。だって私も、おじさんをラベリングしているじゃないか。おじさんは、「若い女」ラベリングをして雑に扱ってくる脅威だと、私は全てのおじさんにそのラベリングをしてしまってはいないか。
もっと他に目を向けてみれば、私だって色々な人をラベリングしてしまっている。アパレルのおねえさん、コンビニの外国人の店員さん、街中で見かける障害者の方、挙げればキリがない。私も彼らの属性だけで、中身まで分かった気になって、距離をとってきたのだ。

だから、私は自分自身にもNOと言う。自分も含む全ての人を、勝手にラベリングしてはいけない。その背後にある、彼らの人間性をもっと想像しなくてはいけない。その上で、決めつけや差別することなしに、相手を尊重していかなくてはいけない。自分がそうしないと、いつかまた誰かが私をラベリングしてきたときに、怒りと悔しさを繰り返すことになってしまうと思うから。

ラベリングしてくる全ての人と、気づかずにラベリングをする自分自身に、私はNOと言う。私が女であるだけではないように、きっと目の前のその人も、目で見えるだけの姿をしているわけではないのだ。