●ヒコロヒーの妄想小説:本日のお題「女癖の悪い男」

「ねえ由莉ちゃん」
「はい」
「こっち来て」
「いきませんって」
「ええ」

野菜炒めの残りと缶ビールが並んだローテーブルを挟んだ向かいで景太くんはそう言って大げさにむくれてから寝転び、当然のように私の気に入っているクッション、少し値段の張る雑貨屋で買ったピンクと黄色のガーベラが大きくデザインされているそれをスムーズに手に取って自分の頭の下に敷いた。

「それ景太くんが敷きまくるから潰れちゃったんですけど」
「いいじゃんそんくらい」
「新しいの買ってください」
「一緒に買いに行こうよ」
「行きませんよ、買って来てください」

なんで俺が一人でお前のクッション買うんだよ、と景太くんは笑って、私に背を向けて自分のスマホを手にとって何かを黙って眺めだした。景太くんの後頭部越しに画面がちらりと見え、誰かとラインをしているということだけが把握でき、反射的に顔を背けて目の前のローテーブルに置かれてある缶ビールを掴んだ。

景太くんのことを受け入れがたかった。軽蔑していた

景太くんのことは出会う以前から女性に纏わるろくでもない噂ばかりが目立つ人だということを知っていた。彼のバンドのライブが私の勤めるライブハウスで開催されることになり、彼らのライブに音響として私が入ることになった際には必要以上に警戒心を抱いて接していた。彼が異常に前髪を気にするところも、調子の良いことを言うのが得意なだけでさまざまに無責任なところも、やたらと女性スタッフたちがぬか喜びするような言動を繰り返すところも、何かを狙ったように私の髪を軽々しく触ってくるところも、由莉ちゃんだけにね、と笑ってドリンクを差し入れてきたところも、心から軽蔑していた。
ライブハウスのスタッフには景太くんを「かわいい」と語る女性もいれば「かっこいい」と語る女性もいて、でも私はさしてどっちとも思えず、むしろ不実でありそうなところに色気を感じるのはばかげている気がしていた。女性の癖が良くない割には同性である男性たちからは疎ましがられたり僻まれたりすることもなく、景太くんのことはみんな既に「許している」ような空気が立ち込めていた。それもまた私は受け入れ難かったのは、それは景太くんを「許している」のではなくて、景太くんによって「許させられている」ような気がしていたからだった。つまり私は、景太くんの持つあらゆるだらしなさのようなものを、他の人たちと同じように彼を「許す」ことを許せないままでいた。

家の近所のコンビニで偶然に景太くんと出くわしたその日、私の気分はひどく落ち込んでいて、それはくすんだ鈍色に全身を覆い尽くされてしまったようで、この色じゃなければ何色になっても良い、この色だけどこかへ遠くへ飛んでいってほしいと祈るように発泡酒のロング缶三本を雑に掴んでカゴの中に入れたところで、スエット姿の景太くんに肩を叩かれたのだった。
うわべらしいどうでもいい世間話をほんの少しした後に、ちょっと今から由莉ちゃんの家で軽く飲もうよとさらりと言われ、何がどうなってそう言ったのか自分でも今では分からないけれど、二つ返事ではいと言って、そのまま10分ほど歩いて私の家に到着し、狭いワンルームでやっぱりローテーブルを挟みながら缶ビールをいくつか飲み、私が勤めているライブハウスについてや、界隈のバンドについてなどの他愛ない話をしているうちに知らぬ間に二人して眠っていた。
それからというもの、景太くんはふらりと私の家に勝手に現れては安い酒を飲んで私のクッションを頭に敷いて横になり、気分が良くなれば私の観賞用のウクレレを弾きだしたり、私のうどんを勝手に焼きうどんにしては食べきったり食べきれなかったり、毎週土曜のドキュメンタリ番組を勝手に録画登録して私の家で眺めたりするようになった。ただ、この部屋の中では、たったそれだけのようなことしか起こらないまま、もうすぐ三ヶ月が経とうとしていた。

彼が私に対して妙な言動を繰り返す理由はたった一つ

「景太くん聞きましたよ」
「どうしたの」
「なんか、香山さんに手だしたっていう変な話」
「香山さん?」
「つぐみさんのところの」
「あぁ」
「香山さん、うち来るたび磯部さんに景太くんのこと話してるから」
「言わせといたらいいのよ。多分そうやってバランスとってんじゃん」
「バランス」
「由莉ちゃんもバランスとるでしょ、嫌なことあったら」
「バランス」
「嫌なことあったら何してるの」
「音楽、とか、聴いてたら、嫌なこととかは忘れますけど」
「へえ、俺は音楽きらい」
「いや一番好きでしょう」

ふは、という空気の抜けたような音を出して景太くんは笑って、のろりと上半身を起こしてテーブルの上に置かれてあったたばこを手に取った。

「由莉ちゃん」
「はい」
「うーん」
「何ですか」
「かわいい」

そう言って私の目をじっとりと見ては機嫌よさげに微笑んだ景太くんは先に火がついたたばこを咥えてすうと息を吸いこんでから、同じリズムでまたすう、と、息を吐き出した。

換気扇回してくださいよ、と言いながらキッチンの換気扇を回しに立つと、今度はふざけたように、かあわあい、という声が聞こえたので、大げさにげんなりした顔をして見せた。

景太くんが私に対してこういった妙な言動を繰り返す理由などはたった一つで、目の前にいる女性、つまり誰でもいいから、その時目の前にいる女性の気持ちを揺さぶっては楽しみたいだけなのだろうということを深く、しっかりと、分かっている。
それが癖の悪い趣味なのか、たちの悪い才能なのかは分からないけれど、とにかく彼は女性からの好意を集めることにひどく長けており、結局そうして多くの女性たちがまんまと景太くんに好意を寄せては、それぞれに悲しんだり、怒ったり、落ち込んだりしている結末ばかりがこの世に誕生し続けている。
時折女性について話す景太くんは冷淡で感じが悪くて嫌悪感ばかりが募っていき、私に対して軽はずみに気恥ずかしくなるような言葉を投げかけてくることも幾分なめられているようで気分が悪い。彼が誰にでも言い放っているような安い台詞で喜ぶことなどばかげているし、彼の気ままな行動に自分のペースを崩され、あまつさえどぎまぎしてしまうことも愚かの極みであると知っているため、嘲りさえしている。簡単に彼に好意を寄せては、簡単にないがしろにされ、それでも景太くんに会いたいと辛そうにこぼす香山さんのようになりたい女が、この世のどこにいるというのだろう。景太くんのことを好きになる、ということは、未来の香山を探せオーディションに自ら腕を回して参加するということで、そんなとんでもないオーディションで見事な合格を勝ち取ろうという女など、まともであればいるはずがないのである。

彼を拒絶できる理由はいくらでもあげられるけれど

「景太くん、寝るならそっちで寝てください」

たばことスマホをテーブルの上に置いたまま、景太くんはまただらりと横になってうとうとし始めていたため、立ち上がって景太くんを起こそうとしていた。

「ああ、え、由莉ちゃんベッドで寝るんだからさあ、俺どこだって良いじゃん」
「起きた時邪魔なんですよ、変に起こしちゃいますから」
「ねえ由莉ちゃんこっち来て」
「行きませんよ」
「由莉ちゃん」
「もう黙ってください」

その瞬間、ポコン、という聞き馴染みのある音が聞こえ、彼のスマホが瞬間的に光ってラインのバナーが表示された。瞬発的に見てしまったそこには、全文は捉えられずとも幾つかの可愛らしい絵文字が露骨に並んでいることはすぐに認識できた。

「景太くん、なんかきてますけど」
「後で見る」
「あの、ちゃんとそっちで寝てください」
「ええ、もういいじゃん」
「ラインきてます」
「もういいってそれは」
「よくないんですよ、ていうかいつも寝ちゃうの何なんですか?帰れば良くないですか?いつまでこうやってふらっとうち来るんですか?クッションも潰れるし、目的わかんないし、けっこう私だって観たいドラマとかあるし、ていうか迷惑かなとか考えてくれたことないんですか?私だって別にめっちゃ暇ってわけじゃないし、こないだじゃがりこも勝手に食べてたし、私あれお湯で溶かしてチーズ入れて食べようと思ってたのに、コンソメポテトも入れたやつ食べようって、でも帰ったらなくて、コンソメのも食べてたし、私コンビニまで買いに行って、ていうか景太くん傘も勝手に持ってってたでしょ、だから私」
「うるさいなあ」
「は、うるさくないです、ちょっと一旦起きてください」
「やだ」
「景太くん」
「なに」
「そっちで寝て、っていうか、傘も新しいの貸すから帰ってください、あとラインもきてる」
「由莉ちゃんに関係ないじゃん」
「関係ないなら電源でもなんでも切っててくださいよ、見えちゃうから気になるんですよ」
「なんで気になるのよ、気にする必要ないじゃん」
「なんでって私」

瞬間的に、ピン、という張り詰める音が鳴った。
強い緊張がこの小さな部屋の中を駆け巡る音で、私は瞬時に動けなくなってしまった。
まるで表面張力いっぱいになった水が、小さな振動でこぼれてしまったように、理性の及ばぬところで思わず溢れてしまった自分の言葉に自分自身が戸惑い、胸を心臓が内側から遠慮がちに殴っていく鼓動ばかりに支配されていく。さっき景太くんがたばこを吸い出した時に回した換気扇の雑音さえこの緊張の糸を弛めることは許してくれず、今は唾を飲み込んでもその音が聞こえてしまいそうな気がして、ただひたすら、こちらに背を向けてただ黙り込んでいる景太くんの後頭部を見つめることしかできなかった。

「由莉ちゃん」

しばらくしたあと、態勢を変えずにこちらに背を向けたまま、部屋中に張りつめる糸を先に緩めたのは景太くんだった。

「なんですか」
「由莉ちゃんさ」
「はい」
「俺のこと好きでしょ」
「違います」
「ふうん」
「私、未来の香山さんに、なりたくないんです」
「ふふ、何それ」

彼の言動の源泉が何かということなどもう嫌という程に分かっている。無責任に享楽的な言動を繰り返しているだけだということも、目の前の女性を翻弄することで自分の自尊心や虚栄心を満たしているだけだということなども十二分に理解できている。軽蔑すべきところや幻滅すべきところばかりで、尊敬できるところなどなければ、好きになれるようなところなんてひとつとして見つけられるわけはなく、彼を拒絶できる理由はいくらでも挙げられるけれど、拒絶できない理由などなくて、ないはずなのに、なのに、どうして拒絶しきることができないまま、どうして、こうなってしまっているのか、何度も何度も、考えることを止めてきたはずなのに、振り払ってきたはずなのに、どうして、もう、何もかも、分からなくなってしまっている。

「香山さんが可哀想です」
「何?」
「オーディションまで開催されて」
「何の話?」
「景太くん、私」
「もういいから、こっちおいで」

そう言って景太くんはくるりとこちらを向いて微笑んで手を伸ばす。この手に触れれば、私は来週にでも磯部さんに泣きついたりすることになることなど分かっている、でも、もしかすると、という浅はかな薄い期待がぬらぬらと喉のあたりを湿らしていき、明日になれば後悔することなどもう既に知っているはずなのに、鼓膜が破れそうなほどに理性が警告音を鳴らしているのに、なのに、どうしてなのだろうか、導かれるようにゆっくりと右足に体重がかかっていき、景太くんの手のひらに向かって差し出ていく右手を止めることができなかった。

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