「弱くてもいいことが許されている気がする」
「お尻の穴に指を入れてみてほしい」
数年前、当時付き合っていた風の男性に、切実な面持ちで、そう頼まれて承ったことがある。
いきなり何を言っているのかと思う人がほとんどだと思うし、正直なところ当時の私もそう思ったが、まずは話を聞いてほしい。なぜそんなことを言われたのかは覚えていないのだけれど、とかく針で刺したらはち切れそうな表情だったので、それなりの事情があったのだろう。とりあえず私は頼まれたとおりのことを実践することにしたのだった。
しかし、いざ指を挿し入れてすぐ彼が泣き出してしまった。びっくりした。普段の彼はとても頼りがいがある人で、歩けばトラブルにぶち当たるというよりは、呼吸をしているだけで体内にハプニングを取り入れてしまうごとく災難に見舞われまくっていた当時の私を事あるごとに助けてくれていた。そんな彼が涙するのなんて初めて目の当たりにして、私はすっかり狼狽してしまった。痛くしてしまったのかもしれないと思い、すかさず謝ったけれど、どうやらそうでもないらしい。理由を聞いてみると、彼は「何か、分かった気がして」と言う。
「何が?」と問うと、彼はこう言った。
「身体の中に侵入されることの恐怖や痛みを知らずにセックスしていたことに今まで全く気づけなかった。女の人はいつもこういう想いをしているんだね。けれど、今こうして気づけてよかった」と。
思ってもみなかった答えに驚いて、私は思わず指を挿し込んだまま動けなくなってしまった。正直なところ、そんなこともわからなかったんだ、と思った。身体の中に侵入される恐怖や痛みなんて私にとっては当たり前だ。いつも助走をつけて、弾みをつけて、えいやっという気持ちで高跳びのバーを越えるように身を委ねている。すべての女性がそうだというわけではないだろうけれど、それにしても私たちはさんざん肌を合わせたのにどうして彼はそんなこともわからなかったんだろう、という気持ちだった。
そんな私に彼はこう続けた。
「あとね、許されている気がする」
何か悪いことでもしたのだろうか。何が許されている気がするの、と私が問うと彼はこう言った。
「弱くてもいいということがね、許されている気がする」
全然わからなかった。許されているとはどういうことだろう? 弱くてもいい気がするということは常に強くあらねばならないと強いられているということだろうか。確かに彼はいつでも毅然とした態度で頼りがいがあり、感情を表に出すことのない人だった。だからこそ、私は彼をヒーローのように思っていた節がある。強くて賢くてやさしくて大好きと言った記憶もある。私のそういう発言や立ち居振る舞いさえも彼に負荷を与えていたのかもしれない。そう思うと、私の胃のあたりがグッと痛んだ。
だからだろうか。“こんなこと”をしないと、男性は弱さを表出させることすらできない環境に置かれているのだろうか。もちろん、彼がすべての「男性」を担っているわけではない。しかし、便宜上「男性」という言い方をするならば、彼がそれまで「女性」についてわからないことがあったように、私は「男性」のことをわかっていないと思った。
指でつついたら崩れそうな脆すぎる彼を見ていたら、私の頬にも涙がツーと伝っていた。わかりあえなさへの絶望と前よりはほんの少しわかりあえたかもしれないという喜び、互いに抱えてきた痛みのようなものがないまぜになった。滑稽な格好のままで、ひとりとひとりの人間がそれぞれに泣いていた。
「世間の常識が“急に”変わった」
男性側に“課せられた苦悩”を感じたエピソードは他にもある。働いていたカラオケパブで、あるお客さんについたときのことだった。その人は私に身長と年齢を聞き、「もう少し身長も年齢も低く言っておいたほうが身のためだよ」と“アドバイス”してくれた。他のお客さん名誉のために言っておきたいのだけれど、飲み屋に来るお客さんが全員そういう人というわけではない。しかし、そのとき接客したその人はたまたまそういう人だった。
どういう経緯でそんな話になったのかも忘れてしまったが、彼は「同性愛者が養子を引き取るのはダメだと思う」と、話し出した。理由を聞くと「子どもは親を選べないので可哀想だから」だそうだ。よくある回答だ。そして、ここは店だ。議論するのは不適切だが「そうですよね~」と流すことはできない。そこで私は「え~、でも妊娠して子どもを産むときも子どもは親を選べないよね? 施設に預けられた子どもが男女の夫婦に引き取られるときも同じだよね? 同性愛の人が引き取るときだけどうして可哀想になっちゃうのかなー?」とバカのフリして問うてみた。
すると、男性の表情がみるみるうちに歪んでいき、「だって」と癇癪を起こし始めた。
「だってわからないんだよ! 俺らはきちんと郷に従って食い下がって生きてきただけなのに、世間の常識が急に変わり出して、いきなり変化を求めるような社会の流れになって! 今まで当たり前だったことが間違っているとか急に言われ始めて、どうしたらいいんだよ!」
そう言って声を荒らげた男性はまるで、異国に漂着してしまい気づかぬうちに法に抵触して捉えられた人のようだった。彼の話した一言一句が同性のカップルが養子縁組をすることを否定する根拠になるとは微塵も思わなかったし、“世間の常識”は誰かの犠牲のうえに成り立っていたものなので、擁護しようとも全く思わない。ただ、荒れ狂う感情の波に揉まれ溺れている一人の人間を目の当たりにして気の毒だと思ったのも正直なところである。
私は黙って、男性の背中をさすった。適切な言葉がわからなかったので酒を注ぎ、ダンスチューンを入れてタンバリンを振りながら歌って踊って職務を果たした。
“強者”で“加害者”で“マジョリティ”ならではの苦悩
最初に登場した男性は「“強者”であらねば」という“呪い”に苛まれていた。男性も男性でジェンダーロールでがんじがらめになってつらいのだというのは、何かと“呪い”をかけられがちな女性にとってもわかりやすい事例かもしれない。
ただ、先のカラオケパブの男性についてはどうだろう。そもそも彼が「同性のカップルの養子縁組を否定し、論が通らなかったら駄々をこねた」ということに、彼が「男性」であることはどれほど関係しているのだろうか。
それについては、「男性」が“加害者”ないしは“マジョリティ”であることが関係していると私は思う。家族カウンセラーの信田さよ子さんの著書『〈性〉なる家族』(春秋社)の中に岸政彦さんの論の引用が登場する。
彼によれば、「お前は誰だ?」と常に問いかけられているのがマイノリティであり、マジョリティは純粋な一個人として透明な存在でいられる特権を有している。ところがある瞬間マジョリティとして引きずり出されることがある。それは必ず加害者としてなのである。
『〈性〉なる家族』(信田さよ子/春秋社)
つまり、「お前は誰だ?」と問われる機会に晒されておらず、そうしたことを考えてもこなかった人間がいきなり“加害者”として糾弾されることへの恐怖感が「男性≒マジョリティの性」に共通してあるというのだ。(ちなみに、「男性」が性暴力の話になった途端に、加害者男性を激しく攻撃したり、無視してスルーしたり、被害者女性に責任があると言ったりするなど“過剰”な反応を見せるのもマジョリティの性であるが故かもしれないと信田さんは指摘している)
そう考えてみると、先のカラオケパブの男性の言っていることも同感はできないが理解はできるような気がしてくる。あの男性は今まで「同性愛のカップル」というマイノリティのことを深く考えたことがなかったのだろう。何気なく話したことに真っ向から疑問を投げかけられ、「自分が何も考えていなかった」「筋の通っていない考えかもしれない」という事実に耐えられず、責められたように感じて癇癪を起こしたのかもしれない。
「“強者”であらねば」という呪いに苦しんできた男性と、同性愛カップルの養子縁組の話をしているときに阿鼻叫喚した男性の話は性質が全く異なるように思える。確かに異なる点は多いのだが、両者の根底を流れる共通点が1つだけある。
それは、“強者”で“加害者”で“マジョリティ”ならではの苦悩だということだ。
「想像し続け、怒り続ける」
“強者”で“加害者”で“マジョリティ”ならではの苦悩について書いたけれども、別に私は「男性」の味方ではないし、擁護しようとしているのでもない。強さを背負わされるつらさや、“加害者”としてのみ日の目に晒されることのつらさがあったとしても、「女性」に強いられてきた非平等の免罪符には絶対にならない。
ただ、そうした背景を知らずして、「社会を良くしよう」としていこうとしても無理があるのではないかと思う。
たとえば、冒頭のお尻の彼が抱えていた「強くあらねばいけない」という“呪い”に気づいているか否かでかける言葉の内容は変わってくる。
たとえば、カラオケパブの男性に必要なのは、“叱責”や“罰”ではなく“説明”である。男性個人が悪なのではない。そうしたことを考える環境や巡りあわせになかった彼自身の不運や構造の問題ともいえる。そういう人に何が悪かったのか、そして責任の取り方を説明することだと思う。責任の取り方も知らせずに怒りだけぶつけては、恐怖心からかえって威圧的な態度をとろうとしてくるかもしれない。そして、それは生産的な解決方法にはならない。
繰り返しになるが、私は男女不平等の社会を憎んでいる。今までされてきた自分が“女性であること”が原因で受けた不遇も絶対に許さない。だけど、それは個々の男性が悪い場合と、社会構造や巡り合わせが悪い場合があり、多くの場合はその両方が掛け合わさっている。
だからこそ、怒りの矛先や表出のさせ方を考える必要があるのではないかと思う。それは、「男性」に取り入ろうというのではない。同化しようというのでもない。ただ、双方ともに無駄な傷を増やしたり、無駄な分断を避けたりするに越したことはない。相手のバックグラウンドにあるものを想像して「適切」かつ「効果的に」アプローチする。
もちろん、相手をあれこれと思いやらなければいけないのはいつもマイノリティではないかという反論はもっともだ。「伝え方に配慮した言い方でなければ受け入れられない」とする態度は傲慢だし、そもそも伝え方などを気にしている余裕などないほどに、あるいは声をあげることすらままならない人もいるだろう。でも、残念ながら、怒りをぶつけるだけでは何も進まない側面もある。怒っていい。怒るべきだ。しかし、それと同時に、相手側の背景についても想像を及ばせる必要性も感じている。
というよりも、もしかしたら私も恐れているのかもしれない。知らず知らずのうちに自分がされてきたことを相手にもしてしまうことを。“加害者”になることを。だから、想像力を働かせることをやめたくない。考えてもわからないかもしれない。けれど、わからないなりに想像し続けながら、私は怒りを燃やし続ける。
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illustration :Ikeda Akuri
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この連載について
文筆家・ライター 佐々木ののかがインターネットを舞台に歌って踊って暴れるキャバレーをオープンしました。“観客”の皆様がより一層自由な気持ちになれるような“パフォーマンス”を激しくお届けしていきます。場のムードが高じてまいりましたら、観客の皆様も自由に踊っていただいて構いません。私は踊り子ですがあくまでもトリガー、ここはあなたのためのダンスフロアです。 illustration :Ikeda Akuri