思えば、高校時代に刷り込まれた価値観の1つは、「容姿とコミュニケーション能力が優れていることは絶対正義」ということだったような気がする。そしてそれは、世の中を見渡す限り、現状あまり間違っていない。
どちらも大して持ち合わせていない私は、ときどき自己嫌悪に苛まれて辛くなるのだが、窒息しそうなほど辛くなったことが一度ある。それは、大学2年の年明けに参加した、高1のクラスの同窓会だ。
同窓会といっても、出席はクラスの半分の20人前後。その大半を占めていたのが、当時クラスの中心にいたキラキラ系の男女だ。容姿がいいか、コミュニケーション能力が高いか、はたまたどちらも持ち合わせているか。
今思えば、私みたいな人間がキラキラ揃いの同窓会に飛び込んでいくなど甘かったのかもしれない。
当たり前のように彼らは私を見向きもしない
まず、開始早々、私だけ彼氏の有無を聞かれないことに気づいた。男子も女子も恋バナに花を咲かせる中、誰からも、だ。もしかしたら彼ら彼女らは、私に彼氏がいることをSNS等で知っていたのかもしれないが、それを差し引いても見事に最後まで私にだけ触れなかった。
次に気づいたのは、男子の関心は分かりやすいまでに美人の女の子たちに向いているということだ。
美人の子の一人と話していたとき、別のテーブルにいた男子が「◯◯~、もっと飲みなよ~」と明らかに酔っ払いテンションで彼女に絡んできた。美人だとこうやって男子に絡まれるんだなあとぼんやりそのやり取りを見ていた。当たり前のように、彼らは手前にいた私には見向きもしない。
帰宅途中に見る私のいない集合写真
その後、電車の時間が迫っていたため、一番にその場を離れた。
晴れない気持ちで電車に揺られていると、グループラインに写真が送られてきた。それは、私以外が写った集合写真だった。もちろん、私に詫びなどない。これが私の中で決定打となった。
――ああ、誰も私になんて興味がないんだな。
私はあの空間にあまり歓迎されていなかったらしい。絶望が込み上げた。
そりゃあ、あまり自分から話しかけてこないような人間には、話しかけようという気も起きないだろう。男子の視点に立てば、私のような非美人と喋るよりも、クラスのマドンナたちと喋っているほうがテンションも上がるだろう。
仕方ない、仕方ないと自分を納得させようとしたけれど、そのショックは思いの外大きくて、しばらく尾を引いた。
容姿とコミュニケーションがないだけで、自身を失っていいのか?
でも、本当に「仕方ない」のだろうか?
「容姿」と「コミュニケーション能力」という、膨大な中のたった二つの側面だけで人を測り、そんなものさしのせいで自信を失っていていいのだろうか?
自分に価値などあるのだろうかと鬱々とした。容姿やコミュニケーション能力を高めたいけれど、どんなに頑張ったところで天井などたかが知れているわけで、それらが優れている人たちにはかなわない。そう気づいたとき、自分にないものばかりに囚われていては、この先辛い気持ちは変わらないのではないかと思った。
では、自分にあるものは何か?
そこで思い出した。私には「書くこと」という武器がある。
でも私には文章を書く力がある
県でも有数の進学校に進んだ私は、人よりも少し大きめの自信を持っていた。でも、進学校にはあらゆる「すごい人」がいた。それを目の当たりにしたら、小さい頃から積み上げてきた自信は、少しずつ静かに崩れていった。
それこそ、驚くほどにかわいい人やクラスの誰とでも喋れるような人もたくさんいたし、頭のいい人、ピアノがうまい人、博識な人、器用な人、その他いろんなことに優れている人がこの世にはごまんと存在することを知った。
私は大して可愛くない、人とコミュニケーションをとるのも苦手、勉強もすごくできるわけではないし……そんな自己嫌悪を携えて高校を卒業した。
でも、その代わり書くことだけは残った。
中1の頃から趣味で小説を書き始め、書くことが好きになった。中学と高校のときには地元の文学賞で受賞し、大学生のうちにも何か賞を獲りたいと日々ネタを思案している。
地道に書き続けてきた小説は、面白いと言ってくれる友人が何人かいる。大学の授業で、コピーライターを本職としている教授に文章を褒められた。バイト先でホームページの更新を手伝っていたら、他のスタッフから「文章をまとめるのが得意な子」と認知してもらえた。これまでの積み重ねに他者からの承認も相まって、書くことだけは、誰にも負けない自信がついた。
その自信を思い出したら、同窓会でのショックはかなり和らいだ。
クラスの中心にいる男子のコミュニケーション能力に圧倒されても、ちやほやされている女子の美貌に劣等感を抱いても、「でも私には書くことがあるから」と思うことができ、それが大きな柱となって私の心を支えてくれるのだ。
容姿とかコミュニケーション能力とか、そういうごく限られた価値観だけでなく、多様な側面で人を認め合える世の中になってほしいし、そうしていきたいけれど、たぶんまだしばらく時間がかかるだろう。
そうなるまで、とりあえず自分だけでも、人のいろんな側面を認められるような人になりたいと思うし、自分自身も世の中のがんじがらめの価値観に負けないよう、「書くこと」という武器を磨きながら強く生きていきたいと思う。
ペンネーム:水無月初香(みなづきはつか)
田舎育ち。大阪で大学生をしている。来年から社会人という事実に日々震えている。小説を書くのが好き。