好きな小説は?と聞かれたら、『ノルウェイの森』と答える。好きなアーティストは?と聞かれたら、椎名林檎と答える。そんなわたしによく返ってくる反応は、「メンヘラじゃん(笑)」。その反応が、わたしはどうしても苦手だった。たった四文字の、嘲笑され、レッテルを貼られ、距離を置かれてしまう言葉。わたしはそうは思わないのだけれど、心の暗い部分に焦点を当てた作品も、それらの作品を愛する人々も、「ふつう」の人には「メンヘラ」と呼ばれてしまうらしい。でも、そんな「ふつう」の人たちから、見放されるのは怖かった。だから好きなものについて述べるときは、「わたしメンヘラでさ(笑)」と前置きをし、笑いに変えることで自分を守っていた。「メンヘラ」であるのは良くないことで、もし心の暗い面なんて本気で滲ませたら、人は皆離れていってしまうと信じ込んでいたのだ。

「思考のブラックホールだね」と評された私

22年生きてきてさすがにわかったことなのだが、わたしはどうやら、他の人よりも心が脆いらしい。些細なことでどこまでも落ち込んで家から出られなくなる日もあるし、ちょっと気になることがあると朝まで眠れなくなってしまうし、深夜に一人で泣いてしまう日も少なくはない。人生に対する基本スタンスは悲観的で、心の奥ではどうしようもないことを常にぐるぐると考え続けている。高校の友達には「思考のブラックホールだね」と評された。そんなわたしは確かに、「ふつう」の人から見たら「メンヘラ」と呼びたくなる存在なのかもしれない。

でも、「メンヘラ」という言葉は、ひどく暴力的な響きを含んでいるように思う。まるで、悩むこと、苦しむこと、考えることそのものを価値がないことだと軽視して、切り捨てているみたいだ。人は誰だって悩むし、苦しむし、いつ悲しい出来事が降ってきて心が病んでしまうか、わからないのに。明日そうならない保証はどこにもないのに。「メンヘラ」という言葉が普及したことで、苦しみを消化できないまま抱え込んでしまう人が増えてしまったように思う。

誰かの苦しみを「メンヘラ」なんて言葉で笑う権利は、誰にもないはずだ

そう考えるようになったのは、理由がある。わたしの前述した精神的な脆さは、必死で隠していたものの日々の中で少しずつ露呈していって、わたしの友人はだいたい皆、わたしの「メンヘラ」的気質を知っていった。すると驚くことに、わたしの周りには同じような「メンヘラ」がそぞろに集まってきたのだった。その上「メンヘラ」らしい素振りを普段は一切見せない人も、わたしに「メンヘラ」的な本音を吐露してくれるようになった。

その人たちは皆、ただ自分の気持ちを吐き出せる場所を探していた。「メンヘラ」と悩みを笑われない場所を探し放浪した果てににたどり着いたのが、わたしだった。そんな友人たちを見て思ったのだ、なんだ、悩むことはおかしいことなんかじゃないんだ、みんな「メンヘラ」と笑われるのが怖くて吐き出せないだけなんだ、と。

もちろん、悩まないで生きていけるのも素晴らしいことだ。でも、だからといって「悩むこと」そのものの居場所まで、「メンヘラ」という言葉で奪わないでほしい。自己を強烈に嫌ってしまうことも、他人に怯えてしまうことも、死にたいという気持ちが脳裏をよぎることも、好きだった相手を忘れられないことも、生きていく上では自然と起こりうることで、何もおかしくなんかない。誰だって陥ってしまう思考だし、誰かの苦しみを「メンヘラ」なんて言葉で笑う権利も、誰にもないはずだ。

わたしに「書く」という武器を与えてくれた自分の脆さに感謝している

そう気がついてから、わたしは自分を「メンヘラ」と呼ぶのをやめた。自分の心の脆さも自分の個性で、長所の一つだと思えるようになった。『ノルウェイの森』も椎名林檎も、いまは胸を張って大好きだと言える。

そして何より、いまこうしてエッセイを書けているのは、この性格の賜物でしかないだろう。わたしはまだ未熟だけれど書くことが本当に好きだ。だから、わたしにこの武器を与えてくれた自分の脆さに、心の底から感謝している。

心の敏感さはもう変えようがないから、これからも生きていく上で、きっと何度だって傷ついて、落ち込んで、泣いて、後悔して、それをずっと繰り返していくのだろう。それでもわたしは、それがわたしらしい人生で、わたしにしか見えない景色を見せてくれるものだとだと信じている。

だからもしこのエッセイを読んでいる中に、同じように「メンヘラ」と言われて嫌な気持ちになったり、傷つきやすいことに悩んでいる人がいたならば、それは絶対に誰からも笑われるものではないし、誰にも奪われるものでもないよ、と伝えたい。苦しみは、きっと世界の解像度を上げてくれる。きっと、あなたのやさしさになる。