父親から「女の子はにこにこしていた方が絶対に得だから、笑っていなさい」と言われたことを、一生忘れない。

祖母から「あなたの花嫁姿が見られるまで、私は生きられるかしら」と会う度に言われることに、うるさいと叫びたくなる気持ちを隠して、曖昧に笑っている。

知人に「いい会社に勤める人と結婚して、子供を育ててから自分のやりたいことをすればいいじゃない」と言われたことは、未だに根に持っている。

就活で「育休取得率100パーセント」を誇らしげに語られた時の舌の根っこの苦味が、時々蘇る。個別質問でどういうことか尋ねたら、人事のお姉さんが笑顔で、「そもそも男性には育休制度が適応されない」ということを教えてくれた。

今度就職する友達から、「うちの会社は女の子が多くて男の人に出会えないから、就職前に彼氏を作っておきなさい」と言われたという話を聞いた時、世の中ってすんごくつまらないんだな、と思った。

知人の赤ちゃんに会いに行く度に、その周りの人から「いつかあなたも子供を抱くんだから、その練習に抱いておきなさい」と微笑まれることに、言いようのない苦しさを感じる。

幸せな空間、或いは誰かが幸せだと信じるその場を壊すような真似がしたいわけではない。けれど、その場で幸せを感じていない私がいることに、その人たちは気付いているのだろうか、と思うことがある。

あんたが語ってるそれ、あんたの人生じゃないけど、なんか知ってるの?

私、世の中の所有物なんかではないんだけれど

私が「女の子」だから言われてんだろうか。
だとしたら、「女の子」とやらの人生がその子のものになる日って、いつ来るんだろうか。
私、世の中の所有物なんかではないんだけれど。

子供はかわいいし、結婚だって悪くないと思うけれど、
それは、他人にそうすることを当然だと思われていい理由にはならない。

人生を自分のものだと思うことが、もし「常識的に」考えて間違いであるならば、
せめて、私が自分の人生を私のものだと思うことを、束縛するような真似はしないで頂きたい。
縛るならばもっと上手く、違和感を持たないくらい上手に、私に「人生」を刷り込んで。

「あなた」のかけがえのない毎日と同じように、私の毎日も、少なくとも私にとってはかけがえのないものだから

「こうやって生きなさい」
「ああやって生きたらいいのに」
「当然そうするよね」
「えっ、そんなこと考えてたの?ダメだよ」

私には想像もできない、長く深い人生を過ごしている人達の言葉なのは、なんとなく理解している。
でも、その人達が思う「人生」が必ずしも、私の人生と一致する訳ではない。

私が選んだ道を、惜しいとも間違っているとも言わないで

難しいことは分からないし、自分が経験していないこれからの人生のこともわからない。家族や親戚や知人を憎んでいるわけでもないし、普段は楽しく会話出来る。
でもそれらは、私が、この気持ちの悪さを吐き出すことを諦める理由にはならない。

あなたの人生はあなたのものだと、優しく微笑んでくれる人たちも、もちろん沢山いる。

何かを言われた時に、その場で面と向かって誰かに牙をむくような勇気はないし、
代わりにずっと斜に構えて、誰彼構わず噛み付くことも得策ではない。
じゃあどうしたらいいだろう、と考えて、ここにたどり着いた。

だから、今ここで言う。

私の今後の人生に期待をしてくれること、或いは心配してくれることは、とても有難く思う。

でも、私が選んだ道を、惜しいとも間違っているとも言わないで欲しい。

私の生きてきた時間も、これから私が生きる時間も、今私が生きているこの瞬間も、全て私の人生は私のものだから。