昔からけんかや口論を避けて生きてきた。
そばにいてくれる人たちにはなるべく心地いい時間を過ごしてほしい。他人に威圧感を与えるなんてジャイアンのすることだ!

いつの時代も私が欲しかったのは平穏。負の感情をぶつけることで人間関係にひびが入るなんて面倒を作るくらいなら、その場でぐっと我慢する方がずっと楽だ。それに、それが賢い大人のやり方だと思っていた。だから相手に心ない言葉を言われても、「怒るな。泣くな。大人になれ。」そう自分に言い聞かせてへらへら笑ってやり過ごしてきた。

「優しい」んじゃなくて我慢してるだけよっっ!

だけどときどき、そんな性格が災いして攻撃の対象になってしまうことがあった。小中学生のとき、明らかに私に対してだけやたら強気な物言いをしてくる同級生に出会うこともあった。一度ひどかったのは、悲しいことを言われても笑って受け流そうとした私に対して、「笑ってるんだけど!ウケる!嬉しいの?」と悪意を含んだ口調で同級生が言ってきたとき。調子がついたその子は執拗に私が嫌がることを言い続け、熱い絆で結ばれていると思っていた部活仲間は明らかに困惑している私を見ても、誰も手を差し伸べてくれなかったのを覚えている(このときはさすがに笑えなかった)。

「え、あなた怒ることなんてあるの!?」「ほんと優しいよね」そう無邪気に言っていただくことも度々あったが、それは全くの見当違い。私はどちらかというと傷つきやすい質だし、家に帰ったら枕に顔をうずめて「くっそーーーーう!!!」と叫ぶこともある(勿論ご近所迷惑には配慮して)。「優しい」んじゃなくて我慢してるだけよっっ!全くもう!!

私は相手と正面から向き合うことから逃げてきたのだ

ああ、これは舐められてるな。私は怒らないし、負の感情を周りに伝染させたりしない。それに傷つけたらかわいそうと思ってもらえるほど、かよわい女の子でも愛されキャラでもない。要するに、ちょっとした「とげとげした気持ち」をぶつけるにはちょうどいい相手なのだ。

そう思うこともあったが、人が傷ついていることに気づけない相手は愚かなのだと思っていた。どうして相手の気持ちを想像しようとしないんだろう。どうしてそんなに簡単に、人の心を刺せるんだろう。どうして「怒らない」人は傷つけてもいいみたいに、残酷な線引きができるんだろう。思いがけず誰かを傷つけてしまうたび、死にたくなるくらい罪悪感に苦しんでしまう私には理解できなかった。

私は全く優しくなんてなく、ひねくれた人間だ。思いやりと想像力に欠ける人々のために自分が落ち込んだり、怒ったりすることでエネルギーを使うのは無駄だと思って、ずっとずっと気にしないふりをしてきた。

でも、今になって思う。間違っていたのは私だったのだ。私は子供だったので、気にしないなんてできなかった。ひどい言葉をぶつけられたら、毎度律儀に傷ついてきた。「顔で笑って心で泣いて」いる自分を客観的に観察すると、なんだかみじめで、その場から逃げ出したくなった。ていうか、大人になった今でもそうだ。言葉はいとも容易く、私の心をえぐる。

私はちゃんと怒らなければならなかったのだ。「なんでそんなこと言うの!傷つくよ!」そう言って無邪気に喧嘩できた少女時代に、自分の感情をぶつけるべきだったのだ。
人を傷つける人間、あるいは傷つけていると気づけない人間は、不誠実だ。だけど、私だって十分不誠実だった。「我慢する方が大人だから。」そうやって相手と正面から向き合うことから逃げてきたのだから。

ちゃんと怒って、私の気持ちを知ってもらって、もっと相手と誠実に接したい

何より相手にきちんと伝える努力もしていないくせに、「それくらい読み取ってくれ。」と思っていた私は本当に傲慢だったと思う。これは今留学中で周りの人々に、「いいの?だめなの?」と聞かれてしまうときにつくづく感じる。子供でも大人でも喜怒哀楽を素直に表現している彼らは、とても生き生きしている。相手に不満をぶつけて言い合いになっても、後に引きずるのはなし。自分をぐっと抑え込んでもやもやを抱え込んでしまうよりずっと素敵だ。

高校生になったあたりから、少しずつ「怒る」練習はできてきたと思う。これは周りに私を受け止めてくれる人たちがちゃんといて、そうすることを許してくれるからだ。大丈夫。大人げないなんて関係あるもんか。私はちゃんと怒っていると伝えられる。私は本当の気持ちを知ってもらいたい。もっと相手と誠実に接したい。