朝会うと「おはようーーーー!」と声をかけ元気一杯の人。電話をしているところを聞くと「寒いからちゃんとあったかくするんだよ、じゃあね!」と、ふむふむ電話先でも元気な様子。別の人と会っているところを見ると「ハーイ!」とこれまた元気そう。そんな人に会ったことはないだろうか。私は、そんな人だ。
バイト先に、意地悪な先輩がいた。「静かな子喋らせるよりうるさい子黙らせる方が簡単だからー」と聞こえよがしに言われた。
意地悪な他にも、冷たい人達もいた。私と同類の人が見つけられなくて、居心地が最悪だった。
意地悪な人や冷たい人々、彼らが私のことをどう見ているかは何となくわかる。明るい。うるさい。大げさ。そんなところだろう。私は彼らが私をどう見ているかばかり気になり、悲しみと共に1ヶ月を過ごした。まるで取り憑かれたようにどんより私の何が悪いのか考え続けているうちに、私の思考はコペルニクス的転回とやらを起こした。主体が私、になった。私から見た彼らは。暗い。冷たい。冷淡。
要は私と対称なのだ。体は同じ空間にいても、心は地球の裏側にいる、さようなら。
私の明るさはどこから来るのか
私は明るい。自分でもそう思う。何にでも同意するイエスマンや、芯がない空っぽとも違う。根が強く明るいのだ。そして、申し訳ないが、私からすると大半の人は暗いのだ。そして、感受性に乏しいのだ。(私を主体に考えて何が悪い。)
今回私の明るさについて考えるようになったのは、バイト先での一連の意地悪・居心地の悪さを経験し、コペルニクス的転回があったから。
ここまできたら徹底的に考えてみようと思う。私の明るさはどこから来るのか。そしてなぜ彼らは、私の明るさを嫌うのか。
親族で集まると、私は全く浮かない。周りの女性陣の半数は明るく感受性が豊か。会うとまずハグをして、自分が素敵だと思うことについて沢山話す。もう半分は、あったかサバサバ派。その名の通り、あたたかい人柄だが、サバサバしている。「今日も元気だご飯が美味い!」といったタイプだ。実は、私には、自覚がある。私も周りのみんなも、愛されて育った、そしてみんなユーモアがある、それは絶対的なプラス要素として私の血液に流れている、という自覚が。どうしたら、くらーく黙っていられようか。どうしたら、気に入らない奴をネチネチいじめられようか。そんなの面倒くさくってかなわない。結論を言おう、私のこの明るさは、環境から来ている。親族の明るさだ。周りが明るきゃあ自分も明るいってやつさ。
冷たい人や、意地悪な人、彼らの家庭環境は知らない。「何が彼女をそうさせたか」、なんて知らない。ただ、私の仮説は以下だ。周りが明るくなきゃ自分は明るくならない、そして明るくない人にとって明るい人はどうも鼻につくらしい。明るい人からしたら、暗い人は鼻にはつかない。暗いなあこの人、と鼻先をかすめる程度だ。(とは言っても明るくない人が明るい人をいじめるとは限らない。そこにはまた別の問題があるように思う。)
私は、人生で自分のこの明るさに何度も救われてきた。たった干支周期2回弱分の人生だけれど、人を救った事も何度もあった。この明るさは財産。「守ってあげたい、他には何一つできなくてもいい、because I love you」だ。
財産を守りたい
大人になると、自分自身でいるのはどんどん難しくなる。世知辛い世の中、個性という名の大事な釘を体裁上認めつつ、トンカチでグイグイ打ってくる企業やお上達。(体裁上は個性重視だから余計タチが悪い。)
そんな中、私は、この明るさを守ろうと思う。「心の中にしまい、忘れた、大切な箱を開く時」がいつか来ると思うから。最も、私はしまって忘れないようにしたいけれど。大人になるにあたっての私の信条だ。信条は自由だ。
それから、これから年を重ねる中で、同類の人に会えたら幸せだ。同性でも異性でも。ただ、残念なことにそんなに多くはないだろう。
“I guess when you are young, you believe that you will meet many people with whom you’ll connect with, but later in life you realize it only happens a few times.”
Before sunset script, vintage book, p184
映画の中でセリーヌが言うように、運命の人との出会いは、きっと私が十代の時に胸を膨らませていた以上にずっとずっとレアなのかもしれない。
人がそれぞれ守りたい自分の個性を持っていたとしたら・・・それはとても素敵なことだ。そしてそれが、明るい、という私と同じものだったら、同志がここに。いつか、あなたがあなたの同志と出会えますように。君の個性に、乾杯。